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宮崎智之『平熱のまま、この世界に熱狂したい 増補新版』

宮崎智之 『平熱のまま、この世界に熱狂したい 増補新版』(2024)


著者の宮崎智之さんは文芸評論家・エッセイストで、昨年からコミュニティFM「渋谷のラジオ」で文学に関する番組"Book Reading Club"を担当されていることで知った。主に日本文学を得意としていて、ご自身で単著も複数出されており、今作の増補新版が発売されるこのタイミングで初めて手に取った。

上記のラジオ番組を聴く中で、平成を通り越して令和の世になっていても文学に身を捧げている人がいるのだなと失礼ながら珍しいと率直に思っていたし、感嘆もしつつ勝手に親近感を抱いてもいた。すっかり忘れていたが、自分も文学部でフランス文学を専攻していたのであり、絶対的な読書量が全く足りないながらもそれなりに本が好きだったということも思い出させてくれた。
宮崎さんは文学を、自分は音楽を掘り進めることで、そうした者同士しか辿り着けないであろう地点で偶然に合流したような感覚もあり、同時に今もなお対象に囚われ続けている同志として心の中で一方的に握手を求めてもいた。


この『平熱のまま、この世界に熱狂したい』はエッセイ/随筆集で、体験を通じて得られた観察眼をもって日常を見つめながら、浮かび上がってくる本来の姿を平易な言葉で掬い取っている。
元々単行本として刊行されたのが2021年ということもあり、必然的にコロナ禍で直面した事態も出てくるし、赤裸々に来歴を記している部分もある。挫折、と一言で大雑把に丸めてしまうと著者の丁寧な筆致とは正反対になってしまうが、なぜ自分は躓いてしまったのかをゆっくりと解きほぐしていく目には透徹さが備わっている。人間誰しも20年も生きれば一つや二つ失敗や後悔があるだろうが、そのとき直面する心の動きを掴もうとするのを諦めない態度が通底している。淡々としていながらも、決して突き放すことはない。そのちょうど良い温度感は、端的かつ見事に題名に表出されている。


その柔らかな感性は「いま」に調律しようとしている。
人は、来るかどうかすら本当は分からない不確かな未来に期待や不安を抱いてしまう。
とうに失い、悔いをもたらす過去に苛まれることも少なくない。
そのどちらでもなく、すでにある「ありのままの世界」を感受できたら、どんなにいいだろう。
「いま」しかなかった子ども時代のように。


文学作品からの数多い引用がそれぞれ的確なのだろう、補助線でもなく補強材でもなく、著者の展開する論とがっちり噛み合っていて、一つの文章として結実している。必然性がある参照。
トルストイ『イワン・イリッチの死』は逆説的に読んでみたくなったし、太宰治『右大臣実朝』は文学にしか描けないであろう領域が透けて見える気がする。もう記憶は遠い彼方にある遠藤周作『沈黙』から引かれる人間のどうしようもなさに再読したくなり、川端康成『古都』からの一節に奇跡のような瞬間を感じ取る。



この本を読んで良かったと思えることの一つは、必ずしもモノの見方や考え方が一致しない点こそだった。
現状の自分を追認してくれるだけの書物だったとしたら、それは時間の無駄だろう。差異と摩擦の裏に変化や学びの兆しが潜んでいるのであって、合致よりズレの方が可能性を持っていると思うのだ。

読了後に翻って、自分は「弱さ」を認められているのか。受け入れられているのか。周りとの関係性が気になって、それができていないのではないか。押し黙って口をつぐみ、現状を続けることは、本当の「優しさ」なのか。
いややっぱり人はどんな時代や社会に生きていたとしても、本来の自分自身であるべきなのだ。それもとっくに分かっている。
一方で、そうしたいと欲しても自分自身を全開にして生きることはどこまで現実的なのか。
ここに引き裂かれる感情が発生する。葛藤が生まれる。
その分裂こそが、私の場合は音楽に向かわせる源となった。


前述したように、宮崎さんにはこちらから一方通行的に共鳴を感じている。
世代が近いこともあって、見てきたものが共通する点もあるからだろうか。
同時代人として、宮崎さんの目が何を見て、どう言葉を紡ぎ出していくのか。
伴走、いや共に並んで歩く者の一人になれれば幸いだ。

補章が3つ含まれ、これらをもって本編を完成させているように思った。

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