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映画『泣けない男たち』

イスラーム映画祭に初参加


「イスラーム映画祭」7回目にして初参加。
1週間の集中開催だし、日本初公開作も多いので、欲張ってあれもこれも観たくなってしまう。

ひとまず『泣けない男たち』という作品を鑑賞。

上映前に、主催者と思しき方の短い解説が入る。
歴史的背景から近い映画作品まで、淀みなく10分足らずで伝えてくれて、録音しておけばよかったと思ったぐらい。
情熱を持って企画されているのがよく分かる。使命感かもしれない。



自分たちを客観視する試み

その前説でも言及された昨年の『アイダよ、何処へ?』でも描かれた、ボスニア紛争が背景にある。

文化や宗教、国籍の違いで線引きされ、争いに巻き込まれた男たち。
自分たちが受けた深い傷を、まずどうやって認識し受け止めればよいのか。

閑散期のホテルで合宿し、お互いを、そして自らを認め、赦そうとする試みに臨む。

演劇のかたちを借りて、自身のトラウマになっている場面を敢えて再現することで、客観的になり始めるらしい。
今の自分と過去の出来事に、健全な距離を生じさせようとしているのだろう。

チラシの作品紹介には「有害な男性性」に苦しめられている、との指摘がある。
同時に私には、先鋭化し原理主義化する宗教や思想信条が、より事態を困難にしているように見えた。

自分が絶対に正しい、と思い込むと、そうでない他者は間違っている、と決めつけがちだ。

そこに暴力が加わってしまうと、その応酬はどこまでも泥沼化していく。



人は赦し合えるのか?

各演者たちがあまりに真に迫っているので、ドキュメンタリーなのか?と錯覚するほど。
当然、激昂する場面などで冷静にカメラを回せるわけもなく、これはフィクションなのだと言い聞かせるわけだが…。

感情の持って行き場を見つけられない中で、それでも隣人たちとはこの先も生きていかねばならない。

私のようにアジアの島国から眺めていると、共通点も多い仲間同士でなぜ敵対し合うのかと素朴に思う。
けれど、彼らからすれば、我々も同じようなことをしていると映っているのだろう。


アレン・ドルリェヴィチ『泣けない男たち』(2017、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ=スロヴェニア=クロアチア=ドイツ、99分)
日本初公開 
ボスニア語


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