ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』
ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』
Virginia Woolf “A Room of One’s Own” (1929)
片山亜紀 訳
平凡社ライブラリー (2015)
「物語(フィクション)の形」(195p)を借りた評論で、文学史における女性側からの意見表明であり、問題提起でもある。
当時ヴァージニア・ウルフが女子学生たちに向けて行った講演を元にしているとのこと。
ウルフは早い段階で架空の語り手メアリー・ビートンに話の続きを託し、さらにビートンは架空の現役小説家メアリー・カーマイクルを論評する。
このような入れ子構造になっている。
改めてフェミニズムの定義を検索すると、「性差別をなくし、性差別による不当な扱いや不利益を解消しようとする思想や運動」と出てくる。
それまで女性たちが当然のように受けてきた待遇、つまり自分の仕事を持ち自立するという前提が社会にないため、学業にも就けず、出産・育児や家事労働などを押し付けられてきた歴史がある。そんな選択肢の限られた生活で、彼女たちは思索を深め物を書くことなどできるだろうか?家庭に閉じ込められ、今で言う「体験格差」も大いにあったことだろう。
もし文才が備わっていたとしても、発揮する機会はなく、むしろ抑圧された才能に自ら滅ぼされていくのではないか。例えばシェイクスピアに同じかそれ以上の能力を持つ妹がいたとして、同程度の名声や評価を得ていただろうか?いやそもそも、作品を書き上げ発表することができただろうか?ここでは悲惨な末路が想像されている。
だからこそ、女性たちには自由に使えるお金と、「自分ひとりの部屋」すなわち誰にも邪魔されず自分の内面と向き合える時空間が必要なのだとウルフは説く。
とりわけ後半の、畳み掛けるような幻視力というかヴィジョンを見る力は突出していて、女性の部分と男性の部分を融合させることで優れた芸術は生み出されるというイメージは鮮烈。「創造の業を成就させるためには、精神の女性部分と男性部分の共同作業が欠かせません」(180p)。
ここではサミュエル・テイラー・コールリッジの「偉大な精神は両性具有である」との言葉も引かれる(170p)。
書評も数多く手がけていたというウルフらしく、古今東西の書物が縦横無尽に引用されており、積み上げてきた博識ぶりにも舌を巻く。
何はともあれ、まずはジェイン・オースティン『高慢と偏見』、シャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』辺りを読みたいと強く思った。
後世に残る実力を持ちながら何も残せず人知れず消えていったシェイクスピアの妹は、しかし全ての女性たちの中に生きている。一人一人の中に息づいている。ここの着想はなかなか壮大で熱を帯びる。
「…優れた詩人というものは死なないのです。いつまでも現前し続け、チャンスを得て生身の人間となり、わたしたちとともに歩むときを待っています」(196p)。
同性愛も肯定的に捉えられていて、100年近く前の本なのに現在でも斬新で、まるで未来から来た人の話のようにすら聞こえた。それだけ人々の意識は今でもあまり変わっていないことの証左なのかもしれない。時代に逆行するかのように家父長制が幅を利かせる2024年である。
個人的には、やっとフェミニズムという考え方を実感として掴めたような、後々振り返ったときに転機となるような一冊だったと思えそう。
さらにはヴァージニア・ウルフの弾むような語り口であったり、他に類を見ないような比喩も素晴らしく、いよいよ代表作と呼ばれる小説群も読み進めていきたいところ。