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「不登校予測」の気持ち悪さと大事さ(後編)

今回は週次で書けています。前回の続き、後編です。
前回の内容は以下で。


前編の振り返り

前編の内容をAIで要約すると以下でした。

この記事では、不登校予測の重要性と問題点について述べられています。特に不登校の増加が社会問題として認識されている中で、データを用いた予測の利点と懸念が議論されています。プライバシーの問題、予測の信頼性、統計的差別の可能性、不登校自体が本当に問題なのかといった点が指摘されています。後編では、不登校予測の重要性についてさらに詳述する予定です。

ということで、前編は「不登校予測」の懸念点・モヤモヤ起点で書いていたので、今回は重要性を起点に書いてみます。

NHKが"障がい者"と書かない理由

前編では「不登校予測」のモヤモヤを、①プライバシー、②予測精度、③統計的差別、④そもそも不登校って問題なのか、の4つを挙げました。
そのなかで「不登校=悪いもの、みたいな風潮が個人的にモヤモヤしている一番なのかも」と書いています。

その点で「不登校予測」の是非においては、どう不登校に対応していくかの行動指針が肝ではないかと考えています。
不登校という事象に対し、どこに要因を求めていき、対応していくのか。

話逸れますが、NHKは障害者のことを原則として「障がい者」や「障碍者」とは書かないことになっているそうです。

障害者の表記について(第1441回放送用語委員会)

上記リンクのなかで、障害者団体からの意見として以下が出ています。

ひらがなの「がい」にすることは,障害者の社会参加の制限や制約の原因が,個人の属性としての機能障害にあるとする「個人モデル(医学モデル)」に基づくものであり,医学モデルから,障害を個人の外部に存在する種々の社会的障壁によって構築されたものとしてとらえる「社会モデル」への転換こそが障害者権利条約の根幹でもあることから,賛成できません。

つまりは、日常生活に支障がある「障害」は、個人に内在しているのではなく、社会に外在している。
なので、ひらがないの「がい」にして、見え方を抑えることに意味はない、との意見です。

不登校支援も個人モデルではなく社会モデルで

不登校の話に戻すと、不登校への支援も、個人モデルではなく社会モデルで考えていくべき、を対応の行動指針に据えるべきだと考えています。
その行動指針なしでの「不登校予測」の実施は、無理やり本人を矯正するような苦しさや、ラベリングによる差別などを増やすことにもなりかねないためです。

個人モデルと社会モデルについては、以下の解説が分かりやすいかも。

障害者の人権と教育(その3) 「個人モデル」と「社会モデル」を考える

学校に行けない・行かない理由も、本人に由来するのではなく、その本人に合わない箇所が社会にある、ということ。
少なくとも「不登校対策」を実施する方が、社会モデルの観点で施策を検討・実施することが前提ではないか、というのが私なりの意見です。

そうなれば「不登校予測」のモヤモヤの多くの事象について、根本から対処できるのでは、と考えています。

学校が全てを対処すべきなのか?

そしてもう1つの前提が、学校が全てを対処すべきなのか、です。
社会モデルとなると「その子に合わない面が学校にある」という要因が主になります。
となると、学校が変わることが必要になってきます。
「不登校予測」も、いち早く予兆を見つけ、学校の方を変えていくためのもの、だと捉えることができます。

授業や学校生活において、様々な子どもを包摂するよう取り組む学校をたくさん見たことがあります。
そういう学校関係者には敬意と感謝しかないですが、個人的には今の学校に求めすぎるのも酷に感じてしまってもいます。

インクルーシブ・インクルージョンは指針として正しく、一方で運用するにはとても難しさがあるはず。学校が「公」ならば全てを包摂するべき、は公教育としてはそうかもですが、余力のない今の学校では限界があるはず。

「公」は必ずしも学校だけではなく、福祉行政もあります。選択の幅を広げるために「教育機会確保法」が策定されたのだと理解しています。
さらには、要因が外在していたとしてもそれが学校が主ではないケースもあるはず。

前々回で以下の記事を紹介しましたが、学校の役割を大きく捉えすぎないこと、も目の前の運用としてはとても重要なのではと感じています。

https://www.kyobun.co.jp/article/2024050101

そういった意味で、不登校の要因を考え抜くことが重要になってきます。
では不登校の要因は何なのか?

不登校の要因は本人の「無気力・不安」?

不登校には個々の事由があるのは当然ですが、マクロで見るとどうか。
文部科学省が行っている「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」を見てみます。
結果は以下の通り。

令和4年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果

不登校の要因の50%以上は本人の無気力・不安とのこと。
2番目の「生活リズムの乱れ・あそび・非行」の項目と合わせると、不登校の要因は「本人に係る状況」で6割超。
つまりは要因は児童生徒本人ってことですね。


って、そんな訳あるかっ!

表層に現れているのが無気力や不安だったとしても、もっと要因あるだろ。
子どもが何の要因もなく、無気力や不安になる訳がない(そりゃ、ゼロじゃないだろうけど)。
前述した「個人モデル」の考え方バリバリじゃないか。

ここからもう少し踏み込んで、不登校要因を調査・分析したレポートもあります。子どもの発達科学研究所が文部科学省から委託を受けて実施した「不登校の要因分析に関する調査研究」です。

この報告書のなかでは「無気力・不安」となっている児童生徒について、先生側だけでなく、児童生徒本人や保護者の声も聞いて深掘りをしています。
詳細は原文を読んでもらえたらと思いますが、「無気力・不安」についての考察は以下のように書かれています。

問題行動等調査は、教師が不登校の児童生徒の主たる要因等について回答していることから、教師が把握可能な 要因が明らかな場合はそれに該当すると回答され、そうでない場合、すなわち不登校の要因が明確に把握されていない 場合、「無気力・不安」を主たる要因として報告している可能性がある。

futoukouyouin_202403_a5.pdf (kohatsu.org)

こうなってくると、文部科学省が行っているマクロの調査において、要因把握の観点では機能していない、と考えられます。

ちなみに上記の調査研究は、マクロの文科省調査より要因分析という観点ではずっと参考になるので、気になる方は是非目を通していただけたらと。
先生と子ども・保護者との認識ギャップ、例えば「先生との関係」「学校のきまり」は、先生は認識少ないが子ども・保護者は要因と捉えている、みたいな部分はまさに社会モデルとして見ておくべきことにも見えたりします。

「現場で頑張って」にしたくない

なので、上記委託で深掘りをしているとは思いつつ、もっと本腰を入れて要因分析に取り組む必要がある、と感じています。

当然、個々の事情があり実態が千差万別なのは事実だと思いますが、そう割り切ってしまうと、途方もないコストをかけて全数対応をしていく、そしてそれは公的予算も有限で無理なので「今のまま現場に委ねて頑張ってもらう」になってしまう未来が見えてきます。
それって公共政策としては不戦敗です。頭使って施策を考えることを放棄しています。

そんなの納得できない。嫌です。
学校や保護者、もちろん子ども本人の頑張りは必要なんでしょうけど、社会の仕組みとしてもっと効果的に支えるようにしたい。

そのための1つの方法が、データによる分析だと、自分は考えています。

多角度の事実から要因を分析する

現状の不登校に対する要因分析は、質問紙(アンケート)調査などの自己認知(認知データ)による分析が主になっているように見えます。
つまりは、その人がどう認識しているか。

そうなると、どうしても認知の偏り(バイアス)が出る可能性があります。なので、行動データによって、より良くはそれらを組合せて分析していくことで要因分析の精度をあげる、不登校対策を考えるうえでは「モデル化」ができる(この手のものをモデリングするのは抵抗もありますが、マクロの政策としては必要なこと)と考えています。

この辺りの行動データの分析は、現時点では明らかに不足しているように見えます。
そして「不登校予測」をやるとなると、「予兆」の発見でありモデル化が必須になるので、結果として行動データによる分析が必要になってきます。

勿論、全ての行動データを取得することはできない(やってはいけない)とも思うので、それらを総括する「認知データ」も重要。前述した通り組合せが重要で、一方で今は「認知データ」に偏りがあるのが課題と言えます。

上記のような観点で、個人的には「不登校予測」のチャレンジは重要なのでは、と自分なりには考えています。

ちなみにこの手のデータ分析の件は誤解産みそうなので色々補足したいところですが、もう結構な文字数なのでここでは一旦ここまでで。どこかでまた書ければと。

おわりに

ということで前後編で長々書いた「不登校予測の気持ち悪さと大事さ」でした。結局、後編も大事さ起点で書くと言っておきながら、懸念点ばっか書いた気が、、、

でも、それだけ安易に取り組むべきではない領域、ということなんだとは思います。
「良かれ」と思っての行いが、自由や平等を損ない不幸を産み出す、は最も公共政策(≒自分の仕事)としては最も警戒すべきことです。
哲学なきテクノロジーは純粋な暴力に勝る悪にもなりえるので、「地獄への道は善意で舗装されている」は、今後も心のタトゥーにしていかねばと誓っています。

あと、書き漏らしたことでは「不登校の子ども・保護者の4割が学校内外で相談できていない」という問題です。
不登校が悪い=問題かどうかは別にして、上記は自分から見ると確実に問題です。待ったなしで速攻で解決すべき問題。

「相談先の情報をしっかり周知したらあとは個人の問題」みたいな意見もありますが、不登校の家庭こそ「情報を取りにいく」ことが少ないはず。
これも「自己責任=個人モデル」ではなく「社会モデル」で解決したい。
だからこそ、昨今の行政は「プッシュ型」に枠組みを変えようとしています。

上記のプッシュは、「必要な人に必要なタイミングで」が極めて重要で、そうなると結局はモデル化が重要になります。
その意味でも、不登校予測を通じたモデリングは有効に働くはずです。

などなど、色々書き足らないところありますが、4,000字超えちゃったおので今日はこの辺で。

ではまたー。


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