見出し画像

未来の建築について考える

「未来の建築とは何だろう?」

…という漠然とした問いかけに対する答えは数多く存在するが、その問いかけ自体の意味は皆無に等しい。

というのは、未来の建築とは今ある社会の可能性の波が増幅して具現化した姿に他ならず、今を考えて未来を考えることはできるがその逆は不可能だからである。目的としてではなく結果として未来が決定されていくのだ。

ニューヨークのマンハッタン島に昇る朝日を対岸から眺めたことがある。高層ビルのシルエットは大地と同化して不定形な影に変わり、まるでSF映画のワンシーンを眺めているかのようだった。

未来都市と聞くと大体ニューヨークや東京、上海や香港、シンガポールといった様相を思い浮かべる。高層ビルとその間をくぐり抜ける大きな道、あるいは鉄道。これが空飛ぶ車になろうとハイパーループになろうと変わらない。最小の地表面で最大の経済対価を作り出すために空間と時間を効率化し続けた究極の形がいわゆる未来都市である。そのために都市は高層化を選び、最速のモビリティを作り出した訳だ。

共進化

ところで人間は機能の外部依存によって進化を遂げてきたといっても過言ではない。移動手段の外部化、キッチンの外部化、寝室の外部化、遊びの外部化。それらによって交通、飲食、ホテル、娯楽産業が発達し、それは個々人の生活の質を上げたと同時に、社会的視点で見たときの経済活動の質も上げたことになる。まさしくダーウィン的に言うと「共進化」である。相互依存関係にあるもの同士が互いに影響を及ぼしながら高度なシステムにたどり着く進化である。

例えばスマートフォンの普及はそれ自体の経済規模と同時に人間の生活の質をも同時に進化させている。電卓、アラーム、コミュニティ、財布、カメラ、生活ログ、音楽、ゲーム…ありとあらゆる物ものを外部化して手元に収めているのが現代人。10年前までは物で溢れかえっていた書斎の机の上は、スマートフォン1台だけで全て片付く時代だ。機能の外部化による人間自身の発達と同時に、それにまつわる物事(経済、テクノロジー、アイデア)も見事なまでの発達を遂げ、共進化をしているのだ。

私達が未来建築を正確に予見できない理由の1つはこの共進化にある。人間の進化が建築の進化を決定付け、その逆も同時に起こるわけだ。そして人間を構成しているのがたんぱく質だけではないのと同様に、建築を構成しているのも材料だけではない。それぞれに様々な事情と要因があって、それぞれが独立にかつ相互依存的に発達していくからこそ、正確に未来建築を考えようとすることはカオス理論的な思考停止状態に陥ってしまう。

人間がこのまま共進化をし続けていくことは間違いない。間違いないというより、自然の摂理である。建築だけが進化して人間が進化しないというのは、「今までの統計値のみからしか今後必要な食料供給量を予測できない」のと同じだし、「化石エネルギーの枯渇予測を今ある火力発電効率でしか計算できない」のと同じである。1つの物事は、相互依存関係にある物事の進化に追随していくのだ。

可能性の波という視点

直接的に未来を考える方法がこの共進化によって遮られてしまうのであれば、私達にできる事は未来に起きる可能性の波を考えていく事しかない。映画MARVELシリーズの「アベンジャーズ」でドクター・ストレンジがやったのと同様に、数多くある可能性の波を考えていくことだ。これは可能性の波に導かれる結果を予測するために手段によることが無いため、共進化に遮られることは理論的に無い。

ここから先はこの可能性の波という視点で未来に現れる建築の姿を考えていく。僕がこの可能性の波という視点で物事を眺めることになったきっかけはイーロン・マスク氏であった。彼はTED talksで「火星に人を送るよりも先に、地球上で解決すべき問題があるのではないか?」という質問に対して、「もちろんそうだ。地球にはまたまだ分からないこともあるし解決すべき問題もたくさんある。だが、僕は可能性の波という視点で人類の未来を考えた時に、僕に可能な、より明るい方の未来を作っていきたい。」と話したのだ。これには会場も拍手喝采で、僕自身もとても強い感銘を受けた瞬間だった。確かに彼を突き動かすのは偽善心ではなく、彼自身のロマンなるものである。だが物理学者でもあるイーロン・マスク氏の言葉には明確な論理的裏付けがあり、ロマンだけによって構築された吐き捨てではない言葉が僕の心に刺さった。

僕もロマンを語るだけの建築家にはなりたくない。だからこそイーロン・マスク氏と同じ思考回路に似た物をなんとか手に入れようとしている自分がいる。僕がデンマークの建築家ビャルケ・インゲルス氏に惹かれている理由の1つもまさしくそこにある。

ここからはトピックごとに区切って話をしていくが、短い文章で淡々と語っていくことにする。そこまで無理に話をふくらませる理由も無いのだから。

IoT社会の物質的ミニマリズム

まず建築と人間との共進化に現れ得る可能性の波の1つは、建築のセンサー化である。これはスマートフォンの普及にその起点を見ることができるだろうが、そこまで回りくどく言う必要もあるまい。

簡単に言うと、今あなたが眺めているディスプレイの明るさを調整しているのは誰なのかという話。確かに明るさの基準を決めているのはあなたの意思によるものだが、後は全て照度センサーが調整してくれている。地上を走る鉄道に乗っていると、トンネルや駅を通る時にそのことがよく分かるだろう。僕自身ディスプレイの明るさは数週間いじっていないが、僕に最適化された設定をセンサー系が可能にしてくれているのだ。

未来の建築でもまるでスマートフォンのディスプレイのように、建物自体がそこに住まう人間に最適化された環境を作るためのセンサー系になる姿は容易に想像が付く。元々建築は自然環境と差別化された空間を作るための装置として必然的に要請された産物である訳だが、ある種その究極的な姿が「周辺環境に対応してふるまいを変えていく」可塑的かつ閉鎖的な建築である。

2016年に東京で開かれたHOUSE vision展で永山祐子氏が提案していた建築はまさしくそれだ。まるでスマートフォンに席巻された書斎の机のように、IoT社会に席巻されたあまりにもシンプルな住宅である。

(永山祐子建築設計より)

平面は「の」字型の壁に構成され、アプローチから一筆書きのように流れるシークエンス。水回りと寝室は中央に四角いユニットでまとめられ、その他は全て周りに広がる。四角いユニットを背にすると空間は4分割されたように感じられるが、壁面を背にすると空間の一体感に気づく。

壁面にプロジェクターで映像を映し出すことでTVは必要なく、場所性が開放される。また、この住宅には無かった提案だが、映画「007」シリーズに出てくるスケルトン車に見られるような、微小のカメラを壁面の外側に付けていれば、窓でさえ壁面に映し出されたディスプレイとして表現できるだろう。自分の好きな場所、行きたい場所の360°写真データを読み込めば、住宅をまるごと移動させる錯覚に陥ることも可能。もはやこの住宅は究極のサヴォア邸なのだ。場所性を開放された住むための機械。

風が吹けば屋根の頭頂部が開いて内部に空気の流れを取り込み、雨が降れば閉じる。空調システムもAI化され、もはや「OK,Google」などと喋らなくともエアコンが付き、電気が付き、部屋の掃除も勝手にしてくれるのだろう。


IoT社会が可能にしてくれるミニマリズムに、建築の未来の1つが垣間見える。人間の決まり切った日々のふるまいを外部化することで、建築は進化できる。それは建築自身が強くなるのではなく、柔軟にテクノロジーを受け入れていくことで、建築の持つ物質としての機能性を弱くすることで総体的な生活の豊かさが強くなるという事だ。その意味で、書斎の机が経た進化と同様の進化を、建築も歩んでいく。書斎の机は必要なくなったのではなく、役目が変わったのだ。建築も同様である。物質的ミニマリズムは肯定すべき進化だ。

VR vs 現実ではない

次に考える建築と人間の共進化は、仮想空間への出力だ。

スティーブン・スピルバーグ監督の映画「レディ・プレイヤー・ワン」はまさしく、人々が仮想空間に没頭した結果に現れる衰退した現実世界が描かれている。人間に考えられ得る美しい空間は全て仮想空間上で形態化され、現実世界に現れる建築はバラック同然。生物学的に必要な生理環境以外は全てが仮想空間上で行われる社会。映画「マトリックス」も同様の話ではあるが、いずれもどこか未来に対する悲観論に問題の焦点を置いた物語が描かれている。

だが僕自身の見解としては、仮想空間に全てを注力する社会は現れないと思う。というのは、例えば「インターネットが普及すれば全ての人々はネットサーフィンに明け暮れるだろう」などといった悲観論はよく叫ばれてきたわけだが、実際に現実世界はインターネットを既存の社会プラットフォームに柔軟に取り込んで最適化して発達をしてきた訳だ。仮想空間は確かにSF映画で描かれるようなテクノロジーに到達はするかもしれないが、あそこまで今ある社会に真っ向から対立するプラットフォームにはなり得ないだろう。そもそも社会に浸透していくプラットフォームは、今ある社会に最適化されていなくてはならないし、最適化されなければ進化論的に自然淘汰されていく運命にあるのだから。映画で描かれている物語はその最適化を通り越した先の、今ある社会と新プラットフォームとの乖離しか考えていないからリアリティが無いのだと感じる。

いわゆるスマートフォンが発売されてから10年が経った現代だが、ネット空間が普及すればするほどに今まで以上に人々の交流は盛んになっているし、instagramが世界の場所性を均一化して情報をバラまけばバラまくほどに観光客は増えている。社会に浸透するプラットフォームは既存の社会に最適化されているし、その強みを既存の社会ルールの中で最大化しているのだ。仮想空間がどれだけ今までとは異なる新テクノロジーだと豪語した所で、状況はfacebookやtwitterのそれと大して変わらないと思う。まさしく生物進化と同じく、様々に生まれてくる変種の中で既存環境に最適化された変種がより生存に有利とされ、そうでない物が自然淘汰されて進化が起きる。革新(revolution)は進化(evolution)の結果として現れてくるのだ。

それを踏まえた上で仮想空間に現れる建築の進化としては仮想空間と現実世界との共存である。つまりVRとして独立した空間ではなく、AR(拡張現実)として今ある都市に一致した形で現れる別世界である。

「ingress」や「ポケモンGO」といったスマホアプリはまさしくその起点に位置する。例えばGoogle MAPがAR世界を東京に作り出した時に考えられる仮想空間は、Google MAP上の評価に基づいた『いいね!』の可視化である。渋谷で人気のカフェが最近の話題であれば、渋谷に降り立った瞬間にAR世界が起動し、Google glass(メガネ型端末)に映し出されるAR世界が現実世界の情報を伝える役目をきたすことなどが考えられる。仮想空間が独立することにゲーム以外の理由で意味はなく、仮想空間が現実世界に最適化されることでより大きな価値を持つのだ。経済の下支えとしての拡張現実。

建築の価値を決めるのは現実世界の見栄えではなく、仮想空間の評価で決まる時代が来るのかもしれない。それは言い換えると、場所が情報と化した現代における、新しいハードとしての価値を見出すための解決策の1つだということだ。情報社会を柔軟に肯定しつつ、その上で価値を見つけ出すための手法。

建築を作るのは誰か…

次に考える共進化は、主体性の変化である。

これは理解に簡単な話で、AIが設計して3Dプリンターで建築を作り始める社会が訪れた時に、建築は誰が作ったと言えるのだろうか…という問いだ。人間に介在されない建築はもう既に建設可能な訳だが、それでも建築家が必要とされる理由はどこにあるのだろうか。…だがこのトピックについての結論は未だに僕自身たどり着いていない。

AIは過去の情報解析に長けている。3Dプリンターは与えられたデータの通りに正確に立体を立ち上げる能力に長けている。そしてそれらは人間と比べて圧倒的効率性を持ち、間違えることもない。この数行の言い回しだけでも分かることだが、AIと3Dプリンターは建築設計&施工に最強のタッグなのだ。

例えばiPad上で既成品から家具を選び、好きな平面計画を作り、それを実現するための工費と構造計算をリアルタイムで導き出してくれるアプリが開発されれば建築家のアイデアは参考程度にしかならないし、クライアント側だけで設計から施工までの全行程を考えられてしまうのだ。

これを聞いた限り、建築家などいなくても建築は作れることが分かる。建築家という職業自体、古代ローマの公衆浴場に起因した、建物作りの職人に対する外部依存から始まった訳だが、ついに人ではなくAIと3Dプリンターに外部依存する時代が始まろうとしているのだ。

僕の見解としてはこの社会において、建築家は必然ではないが必要だと感じる。というのは、特段「温かみ」なる感情論でその必要性を押し通す訳ではないが、人間にしか考えられない合理性も存在すると思うのだ。形態と機能が一致したあからさまな合理性。その特殊な合理性(AIには美しさというパラメータが無い)に人間的な美的感覚を保ち続けることに建築家の意思が残ると思いたい。だが、AIがその美的感覚のトレンドを覚えてしまった暁にはどうなるのか…という反論には答えきれない弱さがある。かといって、フランク・ゲーリー氏のような脱構築主義的なスタイルはAIが容易に考えられそうである。

だが、バナキュラー様式は人間の意思によって残り続けると思う。そしてそれはAIとの共存によって、土地ごとの文化性をAIが現代建築に最適化する未来もあるはずだ。文化の無いところに建築が立たないことはAIも知っているだろう。

…といった具合に少なくともAIと人間とは共存していく運命にある。BIMシステムの中にAIの法的審査が入ったり施工管理をAIに一任することも容易に想像がつく未来だ。AIをどれだけ肯定的に今ある建築設計&施工システムの中に最適化できるかがよりAIとの共存による人間と建築の共進化が引き起こされるだろう。

建築が動くのか、車が建築になるのか

次に考える共進化はより馴染みのあるトピック。モビリティに関してだ。

モビリティの中にも種類は多々あるが、特に今後変わっていくモビリティは自動車である。全自動運転技術は日産やトヨタを始めとする工学的なアプローチと、Googleやappleを始めとしたソフトウェア的なアプローチ、timesやUberを始めとした運営管理的なアプローチとが考えられるがそのどれもが熾烈な競争、あるいは統合を繰り返してより高度な全自動運転システムが構築されていくはずだ。

特筆すべきはイーロン・マスク氏が率いるテスラモーターズであり、この会社は技術・ソフトウェア・運営管理を一任することを目指して独自にそれぞれを開発していて、2017年に発売したモデル3において、ハードウェア的には将来の完全自動運転が可能な機能を搭載した車を既に世に送り出しているのだ。テスラモーターズは2019年時点で日産やフォード、GMをも上回る世界第6位の株価時価総額を上げている。テスラが作り出した夢のスポーツカー、「ロードスター」(電気自動車)は停止状態からの加速が世界最速であり、そのデザインと共に車好きの憧れだった訳だが、そのロマンを作り出した会社が今や世界の電気自動車産業だけでなく、自動運転分野においても世界を牽引しているのだから驚く。

自動運転にはレベル0からレベル5までの6段階あり、現時点で普及している自動運転車はレベル2(システムがステアリングと加速減の両方をサポート)で、アウディの出した「Audi A8」が現時点で唯一レベル3(緊急時以外は特定の地域においてシステムが運転)の自動運転を達成している。

また、Alphabet(元Google)の開発しているWaymoという可愛らしいデザインをした自動運転車は、自動車産業の中でも恐らく最も長い8年という歲月をかけて自動運転に関するデータ収集をしている。特にAlphabetはAlpha GOで話題になったようにAIによるディープラーニングが得意分野でもあり、着実に大きな成果を出すことだろう。

ここで建築と自動運転との共進化を考えた時に明らかなのは、自動運転車のデザインが工学的なアプローチよりも空間的なアプローチへと移り変わることである。自動車というよりは移動する建築空間としての認識がより強くなり、その内部空間での使われ方がより建築のそれに近づく。もはやホテルが止まってる必要はないし、オフィスが動かない理由も見当たらない。全ての建築空間は全自動運転システムに否が応でも組み込まれ、その逆もまた真である。

ここでイーロン・マスク氏を持ち上げたい訳ではないが、彼はテスラ社の他にハイパーループという都市間輸送システムとThe Boring Company(掘る会社&うんざりする会社)というシャレが聞いた会社のトップに立ち、それぞれが持ち得る可能性の波をより高めようとしている。ハイパーループは低圧力のチューブ内を超低摩擦のモビリティが走るもので、The Boring Companyはトンネルを超高速で掘り進んでいき、例えばロサンゼルスの交通渋滞を解決する狙いがある。いずれも全自動運転システムが構築された後の社会をリアリティをもって考えられたモビリティであり、新しい社会システムのプラットフォームを既に構築しているのがイーロン・マスク氏なのである。

そのプラットフォームが構築された暁には、よりモビリティの一側面としての建築という認識が強くなるだろう。…完全に建築とモビリティが統合される未来はまたまだ先ではあるが…。

スケルトン・インフィルに見るPtoP社会

次に考えるトピックはスケルトン・インフィルシステムとその応用である。

スケルトンとは、柱・壁・梁・床のみで構築された中身の無い空間のことを言い、スケルトン・インフィルシステムは、その中身をユーザーが自由にデザインカスタマイズできるというもの。水回りや柱の位置による制約があるが、それを加味した平面計画が自由にできるのだ。

オランダの高齢者向け集合住宅や日本の大阪ガスが実験的に作っているNEXT21という集合住宅などのように多くの試みがなされて来たわけだが、この流れはさらに進むと思う。というのは、AIの浸透も含めて、社会システムのトレンド、ここではネット空間を介して主体性が公から私へ、大きな単位から個人単位へと移行していることがより功を奏し、ユーザー視点での住宅設計が増えていくと思うのだ。

Google MAPを作り出しているのはGoogleではなくユーザー側だし、Wikipediaやinstagram、twitterのコンテンツを作り出しているのも全てユーザー側であり、pear to pearによるブロックチェーン型の社会トレンドが目に見えて分かるはず。AIのトピックにも通じる内容だが、ipadを利用してユーザーが自由に間取り図を考えられるシステムのハードウェア的な可能性がこのスケルトン・インフィルに現れているのだ。

人間であることをあぶり出される未来

次に考えるのは人間味である。

建築家の中村拓志氏は「未来に向かえば向かう程に、より人間的な物が現れてくる」といった趣旨のことを言っている。物質的ミニマリズムが進めば進むほど最後に残る空間には人間味だけが形を伴って残るという訳だ。

物質的ミニマリズムは機能をより小さな端末、例えばスマートフォンの中に組み込むことで可能になる訳だが、最終的に形を決定づけるのは人間である。ここでスマートフォンの進化を考えていくのはとても面白い。人間的な「物」がその形、機能性、大きさを決定づけていることが如実に進化の中に現れているからだ。

形だけを考えていくと、初代iPhoneは縦横比率3:2の3.5インチディスプレイを持った太めの長方形だった。それがiPhone2,3G,4,4sと続き、iPhone5で比率16.9、その後はiPhone Xにおいてさらに細長い比率19:9のディスプレイが採用された。もちろん他にもSONYのスマホは比率21:9、samsungは比率19.5:9など多々あり、スマホ全般的に縦に細長い形がトレンドになっていることが分かる。

これはまさしくスマホのコンテンツとスマホ自身(ソフトとハード)との共進化である。というのは、instagramやtwitter、webサイトなどは縦方向にスクロールするUIデザインだ。これはスマホ以前からもそうであったが、人がスマホを持つときの親指の可動範囲がその縦スクロールの意味をより高めた。親指は手のひらを横にしたときに縦に動く唯一の指であり、親指の届く範囲が人間がスマホ操作することができる唯一のツールなのだ。カメラが進化し、ディスプレイが進化し、プロセッサもムーアの法則(半導体の集積率は18か月で2倍になる1965年から続く法則)に従って順調に進化し、より人間に対する機能的な要求はスマホに外部依存されている。その外部依存した末に必然と現れてきた形はやはり人間工学的な、簡単に言うと人のふるまいに基づいた形なのである。物質的ミニマリズムが経た人間とスマホの共進化は、スマホの機能性が人間の使い方を決定付けたと同時に、人間のふるまいがスマホの形・機能性・UIデザインを決定付けてもいるのだ。

建築もスマホ同様に、未来に向かえば向かう程に人間味が形を帯びて現れてくる。それこそ中村拓志氏が建築設計で重きを置いている「人間のふるまい」が意図的な物としてではなく、必然性を伴って建築に現れてくるのだ。建築と人間との共進化の例としてはとても理解がしやすい一例。

宇宙における環境構法

次は宇宙建築について考えていく。

これぞThe未来建築というイメージがあるが、当然ながらそれはSF映画の中だけではなく現実に開発が大きく進んでいる建築分野である。1961年に初めて有人飛行を行ったガガーリンに始まり、1969年に月に降り立ったアポロ11号、宇宙ステーション、キュリオシティなど宇宙開発は着実に進んでいる。

つい最近にNASAとArupが共同設計した月面住居やビャルケ・インゲルス氏が設計したドバイの火星研究所、ノーマン・フォスター氏が設計した月面店舗計画など面白い試みは多々ある。

宇宙建築は何よりもまず最小限のシェルター的構築物、そして次に持続可能性を考えて効率の良い設計を進めて行かなければならず、表現としてのデザイン性などは必要とされていない。高度なシステムである程に制約条件は増えるからである。

持続可能性を持つ構築システム、通称ISRU(In-Situ Resource Utilization)の設計と3Dプリンターを組み合わせれば現実として建築施工面では事足りるだろう。最小の容積で最大の環境性能を作るための装置的な解決策だ。

また、宇宙建築を考える上でもう1つ大きな可能性を秘めている考え方もある。それはテラフォーミングである。月面や火星面を地球と同じ空気比率に整える環境変革だ。テラフォーミングが可能になれば要求される環境性能は重力と有害な紫外線の除去以外では地球とそれほど変わらなくなる。初期投資は多大だが継続的に環境を整えることが可能になるのがテラフォーミングである。こちらは大胆な発想であるが、微生物の散布などにより、意外にもリアリティのある解決策である。テラフォーミングを真剣に研究している学者は多い。

(ssenceより)

ここで、ビャルケ・インゲルス氏の設計した火星面研究所はこの2つを組み合わせた建築で、実際に火星面を想定してドバイの砂漠地帯に建設している。それはまず、ISRUを実現するために火星面を掘り込んでいき、掘った土を地上に盛っていくことで地形的起伏を作る。そして次にそれを半透明のドームで囲う。ここまでは一見したところ普通だが、このドームは他のドームと連続させて結合することができるのだ。火星面に人が増えていくと共にそのドームは大きなリング状の構築物になる。さらに人が増えればリング同士が繋がって都市が形成されていく。さらに増えればそのリング郡が環状に連なってさらに大きなリング状の構築物ができるという提案である。テラフォーミングまでしなくとも、最小の空気容積で最大の空間対価を生み出すことが可能だ。

宇宙において建築はより強い制約を受ける。だが、その制約があるからこその魅力、つまり生物の形を決定付けるのが環境条件であるのと同様に、宇宙環境が作り出す必然な形に建築の未来が託されているのだろう。そしてその中で人間にしか生み出せない合理化された美を見出すことに建築家の職能が必要とされる。

建築の透明進化論

建築の透明性の進化について考えていく。

ピラミッドの平面図を描いた時に、ほとんど空間は無い。石で埋め尽くされた真っ黒な図面になる。建築の原初的な姿とは空間と物質との比率で言うとより物質の方が大きな面積を占めていたのだ。

だが現代の一般住居やオフィスビルの平面図ではどうだろう。ピラミッドの平面図を反転したかのように空間が多くを占めている。等間隔に広く並んだ黒い塊がこの平面における柱である。もはや物質と空間の比率など考えるまでもなく、空間が建築平面図の主役になっているのだ。

石上純也氏の設計した神奈川工科大学の工房ではさらに空間比率が高まる。森の中にさまよったかのような錯覚をもたらすこの空間構成においては、森の平面図を描いたときと同じような、ゴマ粒のような柱しか図面に出てこない。究極の透明建築とはこのことなのだろう。

このように建築は透明進化をしていることが分かる。ここでいう透明性はガラスの使用量とは関係ない。物質的ミニマリズムの進行比率を表す指標だ。

それでは、今後の建築は例えば神奈川工科大学の工房よりも透明性を増していくだろうか。より柱が細くなり、糸のような細さの柱になるのだろうか。…石上純也氏自身、2010年のヴェネツィア国際ビエンナーレにおいて究極の透明建築を提案しているが、恐らくこれ以上進むことは無いだろう。というのは、既に力学的な限界を迎えようとしているからである。これは構造の専門家も煽っていることで、今ある建築が技術的というより、物理的に限界値なのだ。カーボンナノチューブが実用化されたとしても、柱の断面積はそこまで変わらないという。

では建築が透明進化した末に残る物はなんだろうか?…という問いに対しては僕自身答えられないが、考えていくことの楽しさはある。藤本壮介氏が言うような「未来の未来に現れる新しい建築」なのか平田晃久氏が言うような「建築とは絡まりしろを作ることだ」という未来が来るのか、ビャルケ・インゲルス氏が言うような「yes is more 」の建築が未来なのかは当然誰も知らないし、そのどれもが新しい未来なのだろう。その意味で、未来の建築を作ることは誰にとってもできることかもしれない。その結果に現れてくる建築が透明進化では表せられない新しい指標を持つことは十分に考えられる。建築の形態進化はまたまだ可能性を秘めている。

建築の未来

ル・コルビュジエは近代建築の5原則を提示したが、それは決して建築の未来を決定付けた訳ではない。「進化」に偉大な人、1つの法則など無いのだから。ル・コルビュジエは可能性の波を大きくしたまでであり、あとは建築が自ずと必然性を伴いながら未来を決めていくのだ。それが建築進化論。

建築の未来を様々なトピックで考えてきたが、これらは全て実現する可能性の波が増大した末に引き起こされるであろう結果であり、単純な目的論ではないことを肝に銘じていただきたい。目的論的な未来予測など誰にでもできる訳で、「浮遊する建築」、「ゼリー免震の採用」、「画期的な宇宙ステーション」といった具合に多々考えられる。目的論は決して悪いことではないし、それを目指して社会が発達することもある訳だが、僕はより現実に即した手法で未来を考えたいと思ったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?