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社会家としての建築設計

通勤途中に高輪ゲートウェイ駅がある。その駅を通る度に、この駅こそ建築意匠設計者が目指すべき姿勢によって成り立っていると感じたので文章化してみる。

建築設計とは。

まず「建築設計」という意味は広汎である。もちろんデザインという意味での設計はあるが、それ以上に何倍もの労力が必要だ。確認申請はもちろん、住宅環境性能表示や省エネ法、移動円滑化基準への適合、消防とのやりくりや行政との調整など多岐に渡る。

そんな時にふと思ったのが、社会に寄り添った「妥協」を含む総合的な設計態度こそが建築意匠設計者には求められているということ。転じて、自分が芸術家の一種であることを諦める姿勢を意図的に持つことが大切である。、、、性分としてどこかしらに芸術家としての要素は出さざるを得ないが。

2つの建築がある。

世界には2つの建築がある。それは「心を揺さぶる建築」と「上手い建築」である。前者は空間としての価値、後者は存在としての価値に比重を置いているような建築である。

この両者が結びつく可能性はある1点にのみ存在する。それは建築設計者が芸術家であることを諦めて、社会家になることである。

なぜなら、アドルフ・ロースが100年前に説明している通り、資本主義によって手工業製品が備えていた芸術的な価値は模倣(イミテーション)に取って代わられたからである。

印刷業者に何が出来るかを尋ねれば、紙を大理石のように見せることを自慢気に話す時代だ。かつての手工業産業が従来の本物的な価値に乗じて装飾品を作っている限り、「装飾は罪悪」にならざるを得ない。

本物はいらない。ぽさが欲しい。

高輪ゲートウェイ駅に着目してみよう。ここでは前出の質問と全く同じ事が起きている。つまり、大日本印刷株式会社のアルミニウムに木目調を印刷できる技術を使って、内外装材の全てがイミテーションで作られている。

印刷業者が出来る最大限の努力と最先端の技術によって、東京の鉄骨造の駅空間に降り立つユーザー体験が、木造建築に降り立つ体験へと擬似的に昇華されているのである。

鉄道を降りる。見上げれば折り紙のような屋根から漏れる自然光と、それを迎え入れる大きな吹き抜け。エスカレータに乗ると長辺方向に渡された大きなガラス張りによって視野は広がり、地面から空までが見渡せる。全てが電子化されたサインを見て近未来感を堪能しつつも、どこか暖かく落ち着く空間。

それを実現するのは、最先端のイミテーションなのである。実際に通り過ぎる人間の95%は建築に本物さを求めていない。ぽさを求めているのである。

つまり、設計者は華麗に騙したもん勝ちなのである。「上手い建築」でありつつ「心を揺さぶる建築」であるためには、アドルフ・ロースが予見したような社会に迎合し、本物さを諦めることの潔さも大切なのである。

本物の価値を再考する。

もちろん僕だって、本物への価値は忘れていない。時計だって車だって家だって、妥協なく完璧に作ろうとすれば値段が跳ね上がるその分だけの付加価値が存在する。

ただ、コスパと言ってしまえばそれまでだが、クライアントが求めているモノがどれだけの本物さを担保しているべきか再考する必要はあるだろう。同じ900万円という車でもポルシェに出すのとレクサスに出すのとでは全くベクトルが異なるし、あくまで手作り感を忘れないポルシェと安全性や乗り心地のシットリさに比重を置くレクサスとでは、同じ対価として比較できない。

特段レクサスが本物っぽさを演出していると言う訳では無いが、その妥協点を探り、随所にイミテーションを多用する判断を出来る設計者こそが求められている。芸術家であることを忘れない建築家も必要である。だが、全員の設計者がそこを目指していては世の中のプロジェクトはアンビルトだらけである。

ビジュアルを見せるだけなら別に良い。だが実現してこそ設計者である。それならばなんとなく思い描いたラフ・スケッチの解像度を落として建築にするよりは、初めから解像度を高く維持した状態の総合的な設計の方が美しい建築に行き着く近道なのではないだろうか。

…そんなことを通勤途中に考えている。

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