見出し画像

ドレッシング、衣装、意匠

野菜にドレッシングをかける。
休日の朝に鏡を見ながらオシャレする。
建物に貼るタイルを考える。

これらはみんな一緒だな。そう思った。くだらないけど、そんな文章を書いてみる。

ドレッシング

僕は小さな頃に「ドレッシングをかけ過ぎ!」って注意される事が多かった。僕にとっての適正量は少し濃い目なのに、親や姉の標準値に合わせて補正された思い出がある。つい最近にもそんな注意を受けて、ふと思ったことがある。それは「そもそもドレッシングって何のためにかけるのか」という問だ。たぶんその答えは野菜を食べやすくする事に他ならないだろうが、それって装飾と同じだな…なんて事を思ってしまった訳だ。

なんだかんだ言って私達が野菜本来の味を楽しめないが故に、ドレッシングで味を偽装し、苦くて到底食べれないモノを最低限食べられる代物に変換している。その苦みを減らすための手法として、人ごとの適正量に沿ったドレッシングをかけるのだ。

そもそもドレッシングの語源は、正しくドレスから来ている。つまり衣装である。野菜をオシャレに着飾ることで、見栄えも味も上品なモノに変換しているのだ。

たまにはシーザーにしたり、イタリアンにしたり、和風にしたり、色々なバリエーションがある。

さらにマヨネーズを足したり、オリーブオイルを足したり、塩をかけたり。

ドレッシングと野菜という同じ形式に対して、種類と量、添え物を変えることで多様な体験価値が提供されるし、それ自体楽しい。

衣装

休日の朝。時間がたっぷりある。そんなに多くの衣装も持ってないくせに、僕はこんなコーデにしよう、アクセサリを付けよう、髪型もこんな感じにしようとか考える。

そういう時間を過ごして、いつも以上に自分を着飾って、街に出る。別に誰も僕のことなど注目などしてないだろうに、電車に乗ったり街を歩く時、姿勢を正してしまう。おそらくジャージ姿で街を歩く自分とは全く異なる自信とオーラを呈して。

韓非は以下のように述べたが、衣装が人間を喚起し、内側にみなぎる潜在的な美しさを顕在化させてくれるのではないかと、僕は思うのである。衣装には、人が本来持つパフォーマンスを想像以上に高次元へと高めていく力がある。

その実質が最も美しく、何物をもってもこれを飾る必要がない。
飾り立ててから始めて出されるようなものは、その実質が美しくないからである。

韓非子より

意匠

建築の意匠はドレッシングとは違う。

ずっとそう思っていた。本来の建築美は、何も着飾らずとも、勝手に現れると。だが、現代においてはそう言い切れなくなった。構造材料があまりに進化して、構造的なダイナミズムが形態へと反映されなくなったのだ。

結局、真っ直ぐな柱・梁を組んだ形が合理的だ。面を作ってどんな設えにするのか。その2段階認証のような手続きをこなす事で、それなりにキレイな建物は出来上がってしまうのである。

もちろん、経済的効率性を度外視して、ランドマーク的な起爆剤を建築全体で表現することは可能であるし、そういう建築意匠の可能性は今後もより進化していくだろう。だが、最も安く、最も美しいものを作る前提がある限り、ドレッシングをかけるように建物を着飾る手法が手早いのである。

何ドレッシングにして、何を添えて、どのくらいの量をかけるのか。その適正量を選択することで、建築意匠は衣装を選ぶように完結してしまうのである。

それを超えるために

ドレッシングと衣装と意匠。惰性的に考えると、それらは繋がっていることがわかった。ではそのままで良いのかという話だ。

うん、、別に悪いことはない。だが、それを考えていても新しい未来を切り開くことは出来ないだろう。ドレッシングを選ぶよりもサラダの中身を考えるとか。街に出るための衣装を考えるよりも街に変革をもたらす事業を考えるとか。建築にどんなタイルを貼り付けるか考えるよりも、建築の形態を疑ってみるとか。

楽しさと美味しさは違う。それは衣装選びも、建築意匠も同じだ。

ドレッシングをかけるように意匠を考えるのは楽しいが、そのプラットフォームの内側にいる限りは建築意匠の新しい風を吹かす事は出来ない。そう自分自身の肝に銘じたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?