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被爆二世の母が思うこと

2021年の8月9日は、オリンピック開催での祝日移動で3連休だったが、母はコロナ禍の為帰省せず、3年前に他界した被爆者だった祖母の生涯を思いながら、テレビに向って黙祷をした。

祖母は、14歳のときに通っていた爆心地の専門学校で、たまたま家業の手伝いがあって学校を休んだために、直被爆を免れた。
しかし、同級生のほとんどが即死したことに対して、その場に居なかった自分たちだけが生き残ったことをずっと申し訳なく思っていて、大人になってからも、生き残った同級生たちと慰霊会をしていたようだ。

投下の翌日から学徒動員で登校を促され、真黒くなった同級生の骸を小さな手で運んで荼毘にふす作業を強いられたために数日間二次被曝に曝された。
当時はそれがどれほど危険な事なのかを、誰も知らなかった。

その後祖母は結婚して無事子ども3人を産み育てたが、30歳を過ぎた頃から入退院を繰り返したので、母は学校から帰ると毎日家の手伝いをした。
兄2人は部活や遊びで夜になって帰って来て、家の仕事を全く手伝わなかったので、母は自分だけが家の犠牲になっていると感じて不満を抱いていた。
いつかこの家を出ようと思っていた母は、高校を卒業して就職した銀行を辞めたあと、祖母の痛みや苦しみを慮る事も出来ないまま家を飛び出した。

母はその後東京で嫁いだが、嫁ぎ先の姑が50歳で逝去してしまい、子育てと舅の介護で多忙な日々を送っていたので、60歳過ぎて薬漬けとなって入退院を繰り返す祖母や癌で闘病する祖父の介護を長男の嫁だけに頼っていることに申し訳ないと思いながら、帰省して手伝うことがかなわなかった。

実は、母が実家を出た最大の理由は、祖父は軍隊生活が、祖母は被爆体験が影響していたのか、両親ともが家族に対しての愛情深さが半端なかった。
母が成長して就職してからもそれは続き、母はその過保護に息が詰まりそうだったからなので、祖母と同居している兄夫婦のストレスの強さは、簡単に想像できた。

祖父が他界したあと寂しいと電話をしてくる祖母に、自分たちと同居して東京の病院に通うように何度も勧めたのだが、祖母は、長男夫婦に面倒を見てもらうからお前は自分の子どもの面倒をみろと言った。

はっきり言って、大学に通う息子との母子生活は経済的に大変で、本音を言えば、祖母の年金があれば生活が楽になるし、被爆者は医療費が無料なので、その方が皆にとって良いのではないかと思ったし、最後くらいは母親と暮らしたいと思ってのことだったのだが、母の思いは叶わなかった。

しかし、まあ、親子というのは不思議なもので、祖母が天に召されたあとの方が、いつも母の傍にいて見守ってくれていると感じている(*´▽`*)


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