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強すぎることは、かえって人を傷つける場合もある

強すぎることは、かえって人を傷つける場合もある
      (強さの定義は後程ね…)

その人は
幼少期から大きな壁と戦ってきた。
大人になってもなお また 大きな壁が。

私も人生後半で、エグみ大好き人間なので、そんなに驚くことも減ってきたけれど、その人の人生をざっと聞いただけでも

濃いめだな そして 濃い人ほど 軽めに話すな

そう思った。

どうしても「その場所」へ自分を追い込みたいのか?
それがトラウマの再上演なのか私にはわからないけれど、人生前半の壁と同じような壁が、人生の後半にその人に襲い掛かったのは事実。

そしてね、辛すぎる過去ゆえに、感情を封印してて、さらっと話すのよね。
そして、自分を責めてる。ありがちなストーリーではあるのだけれど…
責めているというより、蓋をしている。

そうしないと 感じないようにしないと 自分を保てなかった

だな

蓋をしてるってことは、我慢がそこにあるわけで、その人の会話や対応を見ていると、自分が受けてきた傷以外は大したことがないという考え方しかなくて、どうも自分の外側の事柄に反応が鈍くなっているのよね。

これは私の母もそうだった。母は父(祖父)からは虐待を、母(祖母)からは無関心をされていたわけで、さらに結婚しても仕事中毒の父にそっぽを向かれ、と何重ものトラウマ協奏曲が奏でられており、小さな音は聞こえなくなっていたよね。
いつだって幼少期から私が泣き言を言えば、そのくらいで泣いてんじゃねぇくらいのことは、基本の「き」だったから。

確かに 彼女(その人)が通ってきた道は、よほどのことがないと、やっては来れない道だから、そうなるのもわかるけれど。

なんだろう、それが健康的かって 聞かれたら 私は NO と答えるよね。またさ、それを出会って間もないころに話すのよ。つまり本人はそれほど気にしている持ち物なわけで…
そんなヘビーな話、出会ってそこそこの人に、普通は話さない。どんなきっかけがあっても、関係性が熟してから蓋を開けるものかなって。

さんざん 人のゴミ箱にされてきた私は、初期の人間関係のチューニングはある程度必須だとおもってる。ごみは捨てさせないよ!

努力と根性で、まっしぐらに アクセルベタ踏みで血を流しながらも生きてき続けてしまった人が、だれよりも傷の痛さを分かっているはずなのに、心の奥底では

私のほうが 痛かったんだから!

と マウント取りつつ 叫んでいるように思えるのは私だけなのかな。。。。


となると、強さって意味が逆になってくるよね。

強さって 一人で頑張る 何でもできる 弱音を吐かない
本音を言わない

そんな感じ?かなって思うけど、それって 強がりよね。

強がっている分、人につらく当たったり、上辺だけのコミュニケーションしかできなかったり。

もちろん、だれもかれも心の奥底からのコミュニケーションをしているとは思わないけれど、かといって蓋が重たいコミュニケーションばかりなのも、健康的ではないよね。心だって新陳代謝したいわけで。

弱さとか迷惑とか喜怒哀楽いろいろごちゃまぜで人生は進むわけでさ。

強がりも過ぎると酷だよね。

あと、苦しい人ほど、会ってそこそこの人に、ぶちまけるよね 自分の混沌を。こういうのって私だけなのかな?よく 会ってそこそこにぶちまけられることあるのよ。何人も。つい先日も。そんで げっそりして、もうその人と2人で会うのやめようって決意すんのよね私。

そういう人に限って、自分が大変だから人の話聞かないか、聞いてるふりするから、何重にも疲れるのよね。そして私は、その人にとってのトドメを刺さないように言いたいことも言えずに会話しなくちゃならないし。そしてたいがい、トラブルに自ら突っ込んでいくorトラブルを手放さない なのよ。

波長が合う人と 会いたいよね。
波長が合うかどうかは 体が教えてくれる。

ただ、ストレスためすぎて頑張りが癖になっている人は、体の反応もわからなくなっているから、カウンセリングなりいろいろ、自分を休めることを始めてみてくださいねぇ!

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