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ボロボロ泣きながら、いっぱい考えた「愛するということ」

「うれしかったんだろうな〜、おかあさん」
ライティングのコーチをしてもらってることばと広告さんからもらったもの。母さんと行った旅行記に対してのコメントでした。

仕事帰りの電車内で、フィードバックを読んで。わたしは咄嗟に泣きそうだった。ふわーっとやさしい気持ちを感じたんです。なんでそこまで泣きそうになったんだろ。立ち現れた感情を言葉にしようってしたら、もっと泣きそう。だから一旦やめました。

家に帰ったら、やっぱ考えたくなった。わたしは冒頭の一文の、どこに心を動かされたんだろうって。頭を動かすほどボロボロ泣いて、泣きじゃくって。感情が止まらない。でも答えが欲しいから考え続ける。そしたら狭いというか。みみっちい、自分の愛の定義にぶち当たりました。

わたしの定義は、「愛するとは、誰かに何かをしてあげること。水が上から下に流れるように、与えていくこと。それが愛」。

全然気づいてなかった。そのくらい胸の奥にしまい込んでる。でも固く握りしめ、握り過ぎてしこりになるくらい、胸の中へ居つかせてもいました。

でもこの凝り固まった考え方が、自分を相当苦しめてた。重い話になってしまうけど、もう言っちゃいますね。

わたしは母さんに、何も出来てない。何もしてあげられてない。何も、何も出来てない。いーっぱい自分を責めてた火種だったんです。

母さんに何かしてあげれるような、能力を備えたわけでもなく。社会的に認められる何者かになったわけじゃない。孫どころか、「わたし幸せなんだよ」って、家庭を持つ姿も見せてない。何やってんだよ、わたし。母さん、もう逝っちゃったよ。情けねえなと思ってた。強く、強く思ってた。

だからこそ、冒頭の一文に心を動かされて。「わたしは何もしてないけど、いいんですか」「母さん、しあわせだったんでしょうか」「今もわたしは何も出来てないけど。このまんまでもいいんでしょうか」。次から次と、「いいよ」という返答を期待してる問いが自分の中から湧いてくる。わたしはこんなにも許されたかったんだ。思い知りました。

落ち着いて考えてみたら、「して『あげる』って何やねん」と母にツッコまれそうな気がする。「アンタに何かしてもらう必要はないわ」と拒否られそうな気さえする。「母さん、なめんとって」と最後は叩き出されそうな。

そうなれば、わたしもカチーンと来てケンカだな。ちょっと言い過ぎじゃねって。けっこう互いに怒り合う仲だったもんで。叶うなら「してあげる」をテーマにケンカしてみたかったな。ほんとはどんな展開になったんだろ。

ことばと広告さんの言葉が沁みたのは、たまたまと言えばそうなんだけど。自分なりにいーっぱい考えて、いろいろ学んで。ようやくタイミングが来たときに、スコーンて刺さる一文がやってきた。

何かをしてあげるだけが、愛じゃない。ただ存在することが「愛」ってこともある。自分を苦しめるだけの定義にとどめず、これからはどんどん広げていきたいな。やわらかく呼吸をするように、願ったのでした。

では また

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