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身の周り30㎝の話:山の葉っぱで美術鑑賞

近所のちょっとした低い山に、ハイキングに行くのが好きだ。ハイカーたちに踏みしめられた土の道、高い木立、木漏れ日、そしてわさわさ生えている雑草。

山に生えている雑草をじっくり見る人は、どれだけいるだろう。雑草たちは街中で見かけるのとはどこか違って、生命力にあふれている。そして何よりも、葉っぱ一枚一枚の形がすばらしい。完璧に美しい曲線の幾何学的なラインには、ため息が出るほどだ。そしてその葉っぱだけでなく、それぞれ違うデザインのものが辺りにいくらでも無造作に存在する。一体どんな天才がこんな形を生み出したのだろう。

話はごろっと変わるが、もう30年以上も昔、京都の博物館で、陶磁器の展覧会があった。そこには日本で出土した最初期のものから(当時の)現代のものまで、年代を追って展示されていた。まず最初は縄文土器。教科書でみた、あの火焔型土器がガラスの向こうにどんといた。それは、ぼうぼうと炎の音が聞こえてきそうなくらいの猛烈な迫力をもって、私を圧倒してきた。おお、と感じ入ったまま、しばらく動けないでいた。

次にあったのは弥生土器。これはもう、全く無駄のない、機能だけを追い求めた至って簡素な土器だった。それが、この上なくすっきりした美しい輪郭で成り立っている。

私にとって、弥生土器以降の陶磁器は全く興味の起きるものではなかった。希代の名工が作った陶磁器を陳列していたのだろうけれど、どれも縄文土器ほどの迫力は感じられなかったし、弥生土器ほどの繊細な美的センスも感じられなかった。形は、弥生土器でもう完成されたのだと思われた。それをふまえて、釉薬を塗ってみたり絵付けをしたりちょっと変わった造形をしたりしているだけではないか。結局、弥生土器を超えるものはなかった。というか、感動がなかった。

雑草の葉っぱは、彼らにとって、そういう形でなければならない必要があっての、あの形なのだろう。縄文土器も弥生土器も、きっとその形でなければならない絶対的な必要性があったのだと思う。作り手の思うきれいな形にしたいとか、誰かを感動させたいとかいう心ではなく。とにもかくにも必要であること。どうしても、どうしても、必要であること。そこを極めた先に、恐ろしいほどの「美」が生まれるのではないか。「美」はきっと、必要から生まれるのだ。という気が、私は、する。



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