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崖っぷちの釣り人

■基本的に僕はこの文章を書くときには何を書くかを先に頭の中で考えておくということはせずに、とりあえずおもむろにPCの前に座り、手をキーボードの上に置く気になったら置いてみて、そのまま手が動き出すのを待つというようなスタイルで書いている。そもそもの話、僕は僕自身の頭というか意識で考えたことをあまり信用していないからだ。僕は、あまりにも適当に話を作り上げ過ぎる。嘘の内容を考えて自分を信じ込ませようとする働きみたいなものがすごく強く、しかもだいたいこのパターンで話を作ると話の前提の部分に強烈なテーゼが適当に配されるので、話が込み入ってくるとその嘘に付き合うのが面倒になってしまうんだよね。で、「この前提は実は破壊できます」みたいなことを書き出すあたりで、いや、だったらそもそもこの話しなくてよくない?となって全部消すみたいなパターンが多々ある。最近は減ってきたが、それは最初に書いた通り頭で考えてから書くスタイルを捨てて、体が勝手に書き上げるというスタイルを身につけつつあるからだ。考えて、書く、の順序ではなくて、書くことが即考えていることにもなっている。

 体の中から言葉が錬成されてくるとき、何か内部にある思念の粒みたいなものが少しずつ収斂してくるのを待っているような感覚がある。それが例えばこうしてワードに打ち込まれたり、例えば歌になったり、例えば会話になったりする。この収束の波が程よいテンポ感になると、文章も好調に進む。一方、思念の粒のまとまりが悪かったり、より広い範囲から集まってくるような気配があるとその収束にも時間がかかり、まぁ一般的に言えばI’m thinkingというような状態が長くなる。これはなんというかこう、念を練っているような状態だ。例えば文章を書いていて、あるところで詰まったとする。そうすると今度は、ではその詰まりを回避するなり破壊するなりする動き方を体が探し始める。結局体が考えているのである。脳は計算しているだけで、考えているのは筋肉だったり、内臓だったり、というか、要するに体というのは脳神経に骨と筋肉がついただけなので、ある意味全身が脳みそだし筋肉には記憶が刻まれていたりするわけで、こうやって何も考えずに文章を書いていて詰まる、というのは筋肉の流れの中に詰まりが生じていると言ってしまっても僕はいいと思う。それを少しずつほぐして、より動ける体、よりフレッシュな体を手に入れていくというのが、この1000文字チャレンジの目的でもあります。ついでにもちろんその時の自分が何をどう考えたり感じたりしているのかを聞き出す目的もある。聞き出すというからにはそもそも自分は自分の中にまだ自分が知らない見解が眠っていると考えていることになる、からそれを聞き出したいと考えているということになる。でもそれって本当か?いや、ある意味では真実だと思う。考え方的には僕は正直自分のことをAIに近いものと捉えていて、例えばプロンプトの入力の仕方を深掘りしていったらそのうち、え、お前そんな考え方できたの?という未知の領域に至れるのではないかと考えている節がある。確かにそれはあるな。自分の脳みその奥に期待している部分がある。だからこう、使い方を定義され過ぎると、もうそれは知ってるよ、となってしまうのだ。確かにそれはそうだね。逆にある意味こうして少しずつ頭の中をネタ切れに近づけていって、出涸らしの向こう側に何があるのか見てみたいというような願望もあるかもしれない。同じことなのかもしれないが。

 そういえば昔、まだ大学で卒業論文を書いていた頃、指導教官の教授が「若いうちはマッチョに書いて書いて書きまくる、それで書きながら考えるというやり方ができるんですよ。まだ体力があるから。でもだんだん年食ってくると中々そういうやり方は自然としなくなってきます」というような話をしていた気がする。確かにそういうことはあるかもしれない。その意味では僕はまだまだ全然若いのかもしれない。本当はもっともっと書きまくりたい。本当は一度、もう頭が痛くて何も出てきませんみたいなマジの出涸らしになるまで書いたほうがいいんじゃないかとも思う。しかし一体俺は、本当に何を書いているんだろうな?

 とりあえず今は文章が落ち着くまで書いているが、今日は意外となかなか綺麗なオチがつかないので、綺麗なオチがつかなければ当然段落を変えてまた再び文章が始まるという流れなので自然とそうなっています。それがこれですが、なんか前思ったのは、この文章を書くことについて文章を書くとか、書くことがないということについて書くというのはそれすなわち日常的行いになっているということで、食事で言えばこれは白米に当たるものなのではないかと。これ前にも書いた気がするな。まぁいいや。つまり、今日はこれについて書いていますとかそういったネタがあるというのは食事で例えるなら今日はトンカツがありますとか、肉野菜炒めですとか、そういった話と対比させて考えることもできるのではないかと。最悪ネタがなければ白飯だけでいけますみたいな。土井善晴先生が味付けなんかせんでええんですとか、一汁一菜という提案とか仰っているが、あえて僕はこう言いたい。ネタなんかなくてええんですと。いやほんとね。別に実際、そう毎日ネタ切れなわけじゃない。今日だって既にもう2000字近く書いているし僕自身ネタ切れがどうとか思ったわけでもない。というか、もう既に僕の中からネタ切れという概念が消え去りつつあって、ネタ切れじゃないんですよ。書かれるべきことは山ほどあるんだけど、それがたまたま「今日の気分とフィットする書き出しが今はまだ見つかっていません」というような状態が続くと、あ、なんかネタ切れじゃね?みたいな気分にもなるんですが、それって実は今日は特にまだ書くこと思いついてませんよということを素直に認めて、なんか適当に「はい、そういうわけでね、」とかなんとか、おいてしまえば勝手に筆というのは進むわけです。これも一つの崩しの技なんですよ。何を崩すかというと、意識の詰まりを崩すわけです。無意識の流れを意識が詰まらせているので、それを崩して無意識を流すわけです。そうすると無意識が体を勝手に動かしてくれるので僕の意識としてはそれをこう、眺めていればいいという話になります。これは全てにおいてそうです。歩くときもそうです。あ、この道…行き止まりなんじゃね?とか考え始めてしまうと足は止まります。とりあえずなんでもいいから一歩出してみると自然と次が動いていくということになる。もしそれで本当に足が一歩も動かないということになればそれはある種の鬱とかそういうことになります。意識によって無意識が八方塞がりになって打つ手がなくなると人は鬱になると思います。意識の硬直はすなわち筋肉の硬直でもあるので、体も動かなくなります。神経ってのはそういうことなんですね。だから、自分の意識の外から訪れてくるものに対して心を開くというのは鬱の治癒においては重要なんですね。多分ですけど。だから坂口恭平なんかが適当に「釣りに行け」とかいったりしてるのは実は結構理に適っていると僕は思うわけです。釣りというのは奥が深いです。ほとんどやったことないけど、やっぱり釣ろう釣ろうと思ってるうちは絶対釣れない。ま、釣れる時は勝手に釣れるし、釣れない時はどう頑張っても釣れないんですよ、という気持ちでやってると、なぜか不思議と釣れるんですね。これは無意識が自然と同化するからです。意識は自然にとっては不自然なので、異物として警戒されるんですね。基本的に意識は無意識の流れが詰まって問題が発生した時に生じるもの、というか無意識の詰まりが意識なので、やっぱり意識メインで自我を構築していくというビルドゥングスロマン的な発想で人生を構築しようとしていくとどうしても無理が生じる。無理が生じるというか、それそのものが無理の塊みたいな状態になってしまう。正直僕も今、かなり無理が生じそうな状態ではあるのですが、逆に今正気を保っていられるのは、この手の状況に対して僕が多分15年以上前から対策を立ててきたからというのは言えると思います。まぁそんなことしてないでもっと他のことしてればそもそもこんな状況になってなかったんじゃねということも言えるのですが、それはそれでその時の自分にその選択肢はなかったので、今更いっても仕方がありません。ははは。

 ほら、こうやってたくさん書いていると、あったまってからじゃないと書けないようなセンシティブな内容(以下、センシティブ)も書けるわけです。で、このセンシティブってのは開示することが大事なわけですね。何事も開示できれば、問題はもう解決したようなものです。書いてて思いましたけど、例えば僕は自分のイメージしている自分が壊れていくことに対して恐怖を感じないところがあるかもしれません。というかもう慣れてしまった。無理が極まってぶっ壊れてしまったら、それならそれでその先にまた違う人生があるということを知ってしまっているから。新しい人生が始まるだけなんですね。だから、壊れるなら壊れてしまってもいい。苦しいものを苦しいままで持ち歩けばいいし、それで粉微塵になったら、またそれはそれでミクロの世界が待っているんですね。これってすごいことです。物事って多分無限に拡大できるんですよ。無限小の中に無限大があり、無限大の中に無限小があるんです。まぁそんなこんなで、お金があれば安心だけど、別にお金がなくても安心できる技術というのがあるし、安心できる技術があれば不思議と人生はどうにかなるというお話です。人生に詰みはないんだよ。大体、不安になってると物事はどんどん悪い方に進むというのはみなさん同意していただけると思いますし、なら、その逆もまた然りじゃないですか。不安を止めれば、つまり、意識を停止して無意識に任せるという技術を磨いていけば自然と物事は良い方向に流れていくという話になります。これが運がいい人ということ。運の良さっていうのはこれ実は技術だと思いますよ僕は。お、すげぇ、地味に文章の頭から紆余曲折したのち一貫した話のオチがついた気がするな。これは素晴らしいですね。ありがとうございます。それでは、おやすみなさい。

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