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雨風海に近し

■いよいよ僕は認めざるを得ないのだが、素面で文章を書いている時よりも酔っ払って文章を書いている時の方が明らかに文字の滑(すべ)りが滑(なめ)らかだ。一昨日の文章と昨日の文章とを見比べてみれば、その差は明らかだ。だいたい僕は昔からそうだった。ゲーム“SEKIRO”を初めてやった時、僕は酔っていた。そしてその酔っ払った僕のあまりに無駄のないゲームプレイに、隣で見ていた友人は驚愕した。そして後日、いざ素面にて真面目にプレイした僕の“SEKIRO”の極めて凡庸な、どちらかといえば愚鈍とすら言えるプレイぶりに、その友人はまたも驚愕したのである。「酔ってる時の方がキレキレやん」と。

 だから僕は思った。要するに、常に酩酊状態でいられれば、僕が今後為すであろうあらゆる行為のクオリティははるかに高まるのではないかと。そして、その状態に入るために実際に酒を飲む必要があるのかといえば、決してその必要はないだろうと。もちろん、実際に酒を飲んでしまえば、酔うのは簡単だ。そして今も飲んでいる。だがそれはたまたまだ。要するに、酔っている時と素面の時で何が違うかといえば、酔っている時の方が滑りがいいのだ。酔っている時は、僕の指と頭の連携が、各ジョイントに油を指されたばかりの工作機械の如く滑らかだ。だから僕は思った。この滑りの滑らかさを抽出し、意識にインストールすることができれば、常に酩酊状態であるかのようなハッピーさ、滑らかさでもってあらゆることに当たることができるのではないか、と。「そんなことができるものか」と、皆さんは思われるかもしれない。だがしかし、それがなんと、できるのだ。僕は大学時代から自分の体と意識を使って、気の持ち方が自分の行動や言動、態度・オーラにもたらす変化を延々と観察し、清濁を飲み干しながら体験学習してきた。十年以上使って、少しずつだがそれは確実に手応えのある研究になってきており、だから例えば今回のように「こういう感じで」というような目的が見えれば、それに合わせてどのように自分自身の気の持ちようを変えればいいのか、ある種の自己催眠かもしれないが、が調整できるのだ。変な話、自分自身に対して演技指導をしているとも言えるかもしれない。もちろん、少しでも演技をやめ、自分自身に立ち返るとともに、人間関係において当然必要となる演技の要素を逆に否定せず、かつ自然体でいられるモードをずっと模索してきたといえば、ご理解頂けるかもしれない。そして今回、その最終的な到達点がこの「酩酊」の境地なのではないかと、そう思ったのだ。僕は就職活動というものをちゃんとやったことがないのだが、僕が大学四年生の頃流行っていたのが、「例えるなら私は潤滑油です」というアレと、「ダァ、シェリエス!」というアレだ。そして今こそ僕は、僕自身に対して潤滑油であろうと、そして高らかに叫ぼうと決意した。「ダァ、ヒラキァス!」と。

 「事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」と隣の部屋のPCの中で青島(チンタオではない)が叫んでいるが本当にその通りで、要するに僕は理念を捨て、現場の流れの中で生きていこうとしているのだ。名付けるならば「酩酊文法」とでも言おうか。僕はこれから書いていく中で、創っていく中で、この「酩酊文法」に従い事を為していこうと、そういう宣言をしようと思う。酩酊文法、或いは酩酊態である。これが私の一つの境地である。中学二年の頃に友人に言われた「なるようになる」から始まった私の探求はこうして一つの境地へと至り、そしてまたここから再び無限の旅路が始まるのである。

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