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おはぎとぼたもち

秋のお彼岸、今日は中日だ。

実家では父のきょうだいとお墓参りに行き、今はだいぶん少なくなったお客さんをむかえ、合間に父母が親戚に挨拶に出かける。
母には、代替わりしたら引き継がなくてもいいといわれているこうした風習だが、そのままぷちんと途切れさせていいものか、折々の時節雑節には考える。

ところで、こどものころ、「お彼岸」といえば「ぼたもち」だった。あとは、お客さんのもってくてくれるお供えのお菓子。妹と、仏壇からさげたお供えのお菓子がなにか、確かめるのが楽しみだったのだ。

私の実家では、言葉として「ぼたもち」を年中使う。
春でも秋でも、「ぼたもち」である。
ついでにお盆のときは、きなこの「ぼたもち」(もち米にきなこをまぶしただけ)をお供えに作る。

こどもだった私にとって「ぼたもち」は大きすぎて、おいしいものでもなく、出されると仕方ないので気合で食べるものだった。私はちいさなころから、苦手なものも「とにかく食べきらないといけない」、という思いが強かった。妹は小食で苦手なものは食べずにいたから、家でのしつけの問題ではなく、単に食い意地がはっていたのだと思う。

「おはぎ」の存在を知ったのは、確か小学生のときだ。
買い物についていった先で、「おはぎ」が売られていたのである。
「ぼたもち」に似ている(実際、同じである)のに、なんだかお花のような響きでつやつやした(なぜかツヤに心惹かれていた)「おはぎ」。実際、どちらも花の名前から由来しているのだが、「ん」が欠けた「ぼた」もちはなんだかぼたっ、と響きが重たく、私の頭の中では花の名前とはかけ離れていた。「牡丹餅」なのだといい年で知ったときは、へぇ~と驚いたものである。

「おはぎ」に憧れ続けた私は、ついに高校生のとき、「おはぎ」を手に入れる。
購入したのは忘れもしない、ヤマザキデイリーストアだった。学校に内緒で日曜の朝だけ、部活の前にアルバイトをしていた、その店に入荷したおはぎを買ったのである。一日中、当時使っていたみどりいろのリュックの底に入っていた「おはぎ」は、帰宅するころにはパッケージのなかでかたより、あたたまっていた。帰宅した家のテーブルには「ぼたもち」が皿に盛られている。私は、迷ったあげく、食卓に「おみやげ」として「おはぎ」を出した。

「なんだ、これ買って来たんけ。」と祖母が言う。私は、「おはぎ」を食べてみたかった旨を白状した。「うちでもおばあちゃんが作ったよ。」と母も言った。「ぼたもちでしょ。」と私は答える。

「同じだんべ。」

祖母が呆れた顔でそう告げる。なんだって?……。違うじゃん、うちの「ぼたもち」は「つぶあんでございます」って感じでどーんとでかいけど、これはそんなにでっかくないし、なによりツヤツヤのこしあんじゃん……。

潰れかけの「おはぎ」はやっぱりこしあんで、甘めで、そしてうちの「ぼたもち」とよく似た味がした。

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祖母は亡くなったが、実家では母が今も「ぼたもち」をつくる。祖母より甘さも大きさも控えめの、つぶあんの「ぼたもち」だ。年に二回、おやつに食べるくらいならおいしく食べられるようになった。

親戚へ挨拶回りに行かなくなっても、お墓のそうじと、墓参り、そして年に二回……一回でもいいかなあ、あんこを炊いて、「ぼたもち」を作ることはしていきたいな、と今は思う。

祖母の言葉は埼玉の百姓言葉です。
私も実家では、たまに使います。
皆さんは「おはぎ」食べましたか。




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