苦しさの向こうを目指して

今年1/30のnote公式発表によると、noteの会員登録者は、1000万人を超えているそうである。

7/3、私はとある方の、とあるnoteを拝読した。

サトウカエデさんの「想いをねらって、射る」である。

noteに書くのは三度目になるが、私は自分が「書く」のはなぜか、なぜnoteをはじめたのかを悶々と考えている最中だ。

私に弓道の経験はない。でも、かつて挫折した太極拳と合気道の経験から、何となく、サトウさんのおっしゃる、「射法八節で、矢は「はなつ」のではない。自然と「はなれ」ていくのだ。」という感覚は分かる気がした。

何より、「対峙する相手は、いつも自分だ。」という部分に、共感した。

そして、「文章を書く心象風景」というのは面白いな、と思った。

もっと、色々な方のそれを、知りたいと思った。

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そして昨日、マリナ油森さんのnoteを、たまたま、読んだ。

サトウカエデさんのnoteに応えた、noteだった。

マリナ油森さんは、「心を荒ぶらせ書きなぐっているときの私は、心の中でカメラを構えている。カメラといっても写真用の一眼レフではない。映画撮影用のカメラだ。」と、書かれていた。

私は映画を撮影したことも、制作に関わったこともない。でも、彼女が言う「伝えたい想いはたくさんある。もっと修行を重ねて多彩な表現をできるようになりたい。」という部分は、私がこうしたい、と願っていたこと、そのものだった。

100万人以上の中から、エコーしたおふたり(実際はもっといらっしゃるかもしれない)のnote。それをたまたま、私が、読んだ。

マリナ油森さんも、「みなさんのnoteを執筆する際の心象風景を見てみたい。」と、書かれている。

私も、そう思う。

だから今回、内容が以前と重複しても、どこかの誰かに響かなくても、書こうと思った。

私の中の風景がどんなものか、考えてみようと思った。

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noteを書くとき、まずは「いやだな」と思う。

でも、「書きたい」と思う。

「自分には、必要だな」と思う。

だから、書きはじめる。

サトウカエデさんのnoteを読んで1週間、思い当たった感覚は、「部活動の基礎練習、特に走り込みと筋トレ」だった。自分で書いていても分かりにくい。格好良くない、でもこれしかない。

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私がのめり込んで、しかも継続できたスポーツは、部活動で取り組んだものだけだ。

そして私には、残念な運動能力しかない。(常に真面目に取り組んで体育の5段階評価の平均は3である)

しかし、小・中・高と途切れることなく、色々なスポーツをした。

部活動も、競技は変わったが、運動部だった。

しかも、のめり込んでしまった。

特に中学生の時は、令和の現代では、跡形もなく消滅していて欲しい、ゴリゴリの縦社会(女性のみ)が残る部活だった。

そのため、環境が良かったとは、口が縦に裂けても言えない。二度と属したくない。

しかし、学んだこともあった。

自分には、「基礎体力、筋力をつけること」が他人より必要だということ、「手を抜いては平均にも届かず、必死で取り組まねば置いて行かれる」という事実だ。

これは、謙遜ではない。

水泳で長距離泳ぐには、バドミントンで楽しく打ち合うには、真夏の球場で一試合分笑顔で踊り続けるには、生まれ持った基礎体力と、筋力を、かなり必死になって伸ばさねばならない。サボることは、脱落する事である。自分を今後苦しめる行為である。同級生が走っていないときも、初心者の後輩と走らねば、置いて行かれる。

たかが公立校の弱小運動部でも、先天的運動能力の差は、残酷なほど明らかだった。

走るのは、苦しい。筋トレも、しんどい。

だが、走っていくうち、筋トレを繰り返すうちに、必ず変化があった。

私にも、体力はつき、鍛えた筋肉は発達したのである。

このことは、私に少しばかり、希望を与えた。

「私も、人並みになれる」

卑屈な物言いにきこえるかもしれない。

しかし、本心だった。喜びだった。

自己肯定感が子供の頃からかなり低かった私にとっては、超・すごい発見だった。

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noteを書くときに感じていることに戻ろう。

考えれば考えるほど、私は読み続けたいから、書いている。

病理医ヤンデルこと市原真先生は、こう言われたことがあるそうだ。

「言葉は、自分のものではなく、他者の頭の中にあるものです。」

おっしゃった方の本意はもちろん、私にはわからない。

でも、この一節は、すとんと自分の中に落ちてきて、納得した。

私は、日々感じたり、思ったりしたことを、読んだものの中にある言葉を使って、自分に落とし込んでいるのかもしれない。

私は迂闊に口を開くと、話が四方八方に飛んでしまい、「何が言いたいか分からない」と言われることも少なくない。

だから、自分が何かを書いて表現するときに備えて、そして何より自分が読む行為が好きだから、常に誰かが書いた、何かを読む。

そして、読んだことでみつけた言葉を借り、その時思ったことを交え、自分の想いを書く。

そうすることは、自分の思考を整理することでもある。そして、誰かにそれを伝えたい衝動を、いったんおさえて、いくつかクッションを挟んで、放出することでもある。

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ただし、私は、書くことが下手くそだ。

だから、書くことは、苦しい。

でも、私は知っている。

部活動を通して知ったのだ。訓練することで、これは多少、成長する。ましには、なる。

だから、書く。2時間動き続けられる体力を保つため、走り込みをするように、遠くまで届くショットを打つため、筋トレを繰り返すように。いつか誰かに響く文章を書けるようになるために。

書いている間は苦しい。何を書いているのか分からなくなるし、だからといって構成を作ろうとしても思いつかない。だからえんえんと指を動かすが、終わりは中々、見えてこない。

でも、noteで読んだこと、他の何かで読んだこと、そして私が思ったこと、または毎日考えていることを、だれかのnoteに見つけたこと、私の心が動いたことを、誰かに知って欲しい。恥ずかしいし、誰にも共感されないかもしれないけれど、noteではそれをしていいのだから、したい。

こんな風に思いながら、私はどうにか、noteを書いている。

苦しいよう、でもやめたくないよう、とひいひいしながら、もしかして私は苦しいのが好きなドMなんだろうかなどとも思いながら、書いているのである。

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長々と書いてしまったが、サトウさんや、油森さんが思ったように、私も、やっぱりわけがわからない、と思われる気がしている。しかも、こんなに長く、静謐な雰囲気も、荒ぶる情熱もないのだから、なおさらだ。

でも、もしかしたら、100万がいち、1000万がいち、全く本当にたまたまいつか、誰かが「ああ」と思ってくれるかもしれない。そして、自分の心象風景はこんなかんじだよ、とnoteに新たにしたためてくれるかもしれない。

私は是非、それを読んでみたい。それを、心待ちにしている。

そして心の底では、この気持ちが、誰かに届きますように。そう願っている。





もしもがあったら、読むことに繋げたいです。