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【侵し、侵され。】⑥シュワシュワのアワアワ


サラさんがバーの一番奥のスツールに腰掛けると、マスターはおしぼりを差し出しながら

「いつものでよろしいでしょうか」

と、落ち着いた声で訊ねた。

「はい、いつものデュワーズのハイボールで」

サラさんはマスクの上で、三日月のように目を細めながら答えた。

「承知致しました」

マスターも目尻と眉の端で笑顔を表現した。

マスターが飲み物をつくっている間、サラさんはバッグからスマートフォンを取り出し、白く細い指で画面をなぞっていた。

「お待たせ致しました」

彼女の前にグラスと小鉢が置かれる。

「ありがとう」

またマスターに三日月になった目を向けると、マスクを外しバッグの中へ閉まった。バッグをカウンターの左隅へと置き直し、スマートフォンもバッグの手前に置き直す。グラスとコースターを持ち上げ正面の左寄りへ。小鉢をグラスがあった右寄りへと移動させた。

「失礼しました。サラさんはグラスが左側でしたね」

「いいんですよ。どちらにしてもわたし、微調整して自分の気に入る位置に動かさないと気に入らないんですから」

彼女はそう言うと、おしぼりで手を拭き、よしっと呟いてからグラスを口に運んだ。グラスはよく冷えているようで、白く霞んでいた。

「あーやっぱり美味しい」

「あれっ、氷、入ってないんですか」

思わず口にしてしまったことに、私は自分で驚く。少し酔っているのだろうか。恥ずかしさを隠すように頭を下げた。

「はい。ごくごくと飲んでしまった方が美味しい種類のお酒でつくるハイボールには氷を入れますが、こちらは少しゆっくり召し上がっていただいて、お酒の味を楽しんでいただけるように氷は入れてありません。その代わり、グラスとお酒はキンキンに冷やしてあります。もちろんソーダも」

「わたしはね、炭酸のシュワシュワ好きなんだけど、あんまり早く飲めないんですよ。そーするといつも後半は氷が溶けちゃって水っぽくなっちゃうから。そしたらマスターがこの飲み方を教えてくれて。それからいつもこればっかり飲んでるんです」

「アルコール1にソーダを1の割合いですから、度数高めですけどね。お酒を好きな人はこのくらいで飲みます」

マスターが付け加える。

「へー。そういうハイボールもあるんですね。私はてっきりハイボールというものは炭酸と氷が必ず入るものだと思ってました。ありがとうございます」

「良かったら一杯、いかがですか」

「えっ」

彼女がご馳走してくれる意味で言ってくれてるのか、ただあなたも飲んでみればという意味でいっているのか読み取れないでいた。

「もしよろしければ」

サラさんがもう一度勧めてくれた。

「こちらのお客様、今日がお誕生日らしいですよ」

「あっはい。そうなんですけど」

私がどうしたものか困っていると

「えー、それはおめでとうございます。あっ、ならハイボールじゃなくて、もっとシュワシュワのアワアワの方がいいですね。マスター1本開けちゃってください」

「ありがとうございます。承知致しました。ではどれに致しましょう」

「えっ、えっ、シュワシュワのアワアワのやつって」

「お誕生日にはやっぱりシャンパンでお祝いしなきゃ。でも、そんなに高いのたのめないから、スパークリングでもいいですか。ピンクのお手頃なやつで」

「はい。少々お待ちくださいね」

背の高いグラスが目の前に置かれた。サラさんはハイボールを飲みながら嬉しそうにしている。

「マスターの分もグラスを用意してね」

「ありがとうございます」

マスターがコルクを抜くと控え目にポンっと音がした。薄いピンクの液体が弾けながらグラスに注がれていく。

「お誕生日おめでとう。かんぱーい」

サラさんがグラスを軽く上げると、マスターもそれに続いた。私はついさっき会ったばかりの人達に祝われる戸惑いで、どうして良いのかわからなかった。おずおずとグラスを少しだけ上げて、礼を言う。

まずは、いただくしかない。

口に含むと心地よく泡が弾けた。飲み慣れてないので、美味しいのかどうかよくわからなかったけど、ちょっとこそばゆい嬉しさがあった。店の照明に反射して、グラスの中の液体はキラキラと輝いている。

「良かったらこれ食べます……⁉」

お礼のつもりでサンドウィッチを差し出そうとして、でもこんな感染病が流行っている時期にそれはないかと思い直し、皿を戻す。

「あっ、それ美味しいんですよね。わたし大好き」

サラさんは片手にシャンパングラスを持ったままスツールを降り、こちらに歩いてきた。

「隣に座っちゃってもいいですか」

「あっ、はい。構いませんけど」

ドキドキした。プライベートで女性と話すのは久しぶりだった。こんなに近くで接近することも。

「もう一度かんぱーい」

彼女の肘が、私の肘に軽く当たる。またドキッとする。彼女はそういうことは気にならないようだ。

マスターが彼女の分の小鉢やハイボールを移動させる。サラさんはまたそれを自分の好みの位置に置き直す。

「誕生日っていいですよね」

「まあ、はい。ありがとうございます」


それから彼女の主導で、色々なたわいもない話をした。彼女は私より4つ歳上だと知った。私の見立てよりは6つばかり歳をとっていた。

ボトルが空く頃にはお互いに敬語は使わなくなっていた。私も酒に侵され、気持ちよくなっていた。これ以上、酒に侵されてはまずいと思い、最後の一口を飲み干すと彼女に礼を言い、マスターに会計をお願いした。

「わたし毎週金曜日には大体ここに居るから、良かったらまた一緒に飲もうね」

帰り際、サラさんに言われた。



私は次の金曜日の仕事帰りに、そのバーへ向かった。サラさんは居た。話をした。

その次の金曜日も、そのまた次の金曜日も。

サラさんの存在が、緩やかに私の心に入り込んでいた。知らぬ間に彼女を思い浮かべてしまう自分に驚いた。

5回目にバーで会った夜、初めて彼女と体を重ねた。

いちど関係を持つと、会わずには堪えられなくなった。金曜日の仕事終わりから日曜日の夜にかけて、彼女の部屋で過ごすようになった。

お互いをサラ、キヨトと呼び捨てるようになった。

手をつないで公園を散歩するようになった。

彼女にはなんでも話せるようになった。

彼女に対しては、鎧やバリアは必要なくなった。

私はごく自然に彼女に侵されていった。そしてそれが気持ちよく感じた。今まで自分の中にあった生き方や考え方、それらはもうどうでも良くなった。代わりに彼女の思想、生きていく上での作法が体の中に浸透していった。

彼女というフィルターを通すと、他の人にもやさしく接することができる気がした。

そして彼女から、妊娠したと知らされた。




《続く》





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