見出し画像

◆遠吠えコラム・映画「REVOLUTION+1」(監督・足立正夫)・「カメラを銃に持ち替えて」(画像は映画公式ホームページより)

 安倍晋三元首相の国葬が開催された9月27日、彼の命を奪った犯人・山上徹也容疑者をモデルとした映画「REVOLUTION+1」の一日限定の試写会が全国で一斉に開かれた。安倍元首相銃撃事件を受けて急遽政策が決まり、突貫的につくられたため、本作はまだ未完の状態のままという。地元の映画館でも上映されていたので見に行った。本当は見に行った直後にこのコラムをアップさせるつもりだったんだけど、仕事やプライベートが忙しくてなかなか筆が進みませんでした。まだまだ修行が足りませんね。ちょっと今更ながらといった感じはありますが、遠吠えします。

 本作は公開前から批判の嵐にさらされていた。SNS上では「テロを正当化するのか」だとか、「遺族感情を踏みにじる」との声が相次ぎ、鹿児島市の「ガーデンズシネマ」では上映中止に追い込まれる騒動にまで発展した‹1›。作品を見たわけではないのに、何故「テロを正当化」などと言えるのか不思議でならなかったが。本作の制作・上映そのものが、安倍元首相が銃撃された事件から数か月ほどしかたっていないナイーブな世論を刺激したのだろう。

 若松プロダクション出身の足立正夫が本作のメガホンを取った。足立監督は、テルアビブ空港乱射事件などで知られるパレスチナ解放戦線・日本赤軍の元メンバーだった。こうした監督自身のパーソナリティーも映画を巡って「革命ごっこ」と揶揄する声‹2›を誘発したのだろう。彼の名誉のために言っておけば、足立監督はメンバーではあったものの、1997年にレバノンで逮捕され、実刑判決を受けている。裁判でも、組織が行った殺人には関与していないことが認定されている。とにもかくにも私は、上述したように公開前から話題を呼び、異様な言論空間を創り出していた作品のことが気になって気になって仕方がなかったので、スケベ心の赴くまま劇場へと足を運んだ。

 先述したように本作は、安倍晋三元首相を参院選の最中に銃撃した山上徹也容疑者をモデルにした「川上達也」という男を主人公としている。川上が安倍元首相を銃殺するに至った経緯や、自身の半生を獄中で語るという粗筋。足立監督の過去作で、テルアビブ空港乱射事件の実行犯岡本公三をモデルとした映画「幽閉者(テロリスト)」(2006年、主演・田口トモロヲ)を彷彿とさせる。

 獄中で語る半生の回想シーンで殺人に至るまでの人生を観客に追体験させるかのようなつくりは、連続殺人犯永山則夫が暮らした街並みをひたすら映し出していく「略称・連続射殺魔」(1969年)を思い起こさせる。ストーリーは、山上の半生を伝記的になぞるのではなく、あくまで川上という虚像の半生に象徴的なモチーフを織り交ぜながら描いていたように思う。

 足立監督はかつて「暴力革命」の世界へと足を踏み入れ、そして挫折した。9月21日に渋谷ロフトプラスワンで行われた「未完成品」の先行上映の折、「革命を目指して老人は敗北した。もう暴力は世間にはお呼びじゃない」と語っている‹3›。映画の内容も彼の言葉通り、公開前の数々の批判が指摘するようなテロリストを英雄視したり、暴力を肯定したりしたものではなかった。本作のポイントは、「暴力」による変革を試みる川上とは別の道を模索する者の存在だったように思う。一人目が、川上が住むマンションの部屋の隣に住む革命家2世の女だ。崇高な理想を掲げて戦った父は結局、世界を変えることができず、家族を犠牲にした。彼女は川上に革命のむなしさを語り、凶行を思いとどまらせようとする。もう一人が、川上の妹だ。川上が起こした事件をテレビのニュースで知り、川上の選択を尊重しつつも、川上とは違う方法で世界を変える道を選ぶ。この2人のキャラクターは、先述した足立監督自身の言葉に現れるように、「暴力」による変革への足立監督自身の拒絶が実感を持って表出しているように思えた。

 だが同時に、足立監督は山上徹也のことを、山上徹也が起こした事件のことをどう思っているのだろうか―との疑問も浮かんだ。山上が起こした銃撃事件をきっかけに自民党と旧統一教会の「蜜月」が白日の下にさらされ、教団及び教団に関わった政治家の信頼失墜を招いている。山上の「暴力」が、少なくともここ10年くらいの日本社会の衰退を招いてきた論理を根底から揺るがしている。この論理というのは、足立監督自身が最も憎んできた論理でもあるだろう。かつて決別した「暴力」が、最も憎むべき者に強烈な一撃を食らわしているこの状況を、足立監督自身はどのように感じているのか。

 何度も強調するが、映画は公開前に保守論客を中心に懸念していたような暴力を肯定するような内容ではなかっただろう。むしろ、暴力革命への実感を持った拒絶が表れた道徳的な内容になっていたように思う。だが同時に、そんな道徳的な内容をわざわざ映画として描く意味とは何だろうと、率直に言って、首をかしげてしまった。暴力革命が憎むべきもので、暴力が本当の意味で世界を変えることは恐らくないのだろうということは、言うまでもないし、ましてや映画で観客に示さずとも、多くの人が十分納得のいく論理だろうと思う。しかし、山上徹也容疑者が起こした事件を巡って今目の前で起こっているのは、形はいびつであっても「変革」ではないだろうか。「暴力はお呼びでない」という当たり前、「常識」を揺るがす現実が今まさに起こっている。ただ映画はその「常識」をなぞらえるだけで、「常識」に挑戦するような問題作になりえていないように思えた。

 足立正夫の盟友若松孝二は生前にこう述べている。「僕は『権力』というものに腹が立つ。『権力』をやっつける映画とか、お巡りを殺す映画とか、そういう映画をいっぱいやった。映画の上ではいろんなことをやる分には罪がないからね。本でもなんでもそれを書いても犯罪にはならない。(中略)『権力』を殺したいと思ったら殺すような映画を撮ればいい」‹3›。今回、私が「REVOLUTION+1」を観た直後に思い浮かんだのは、若松孝二だったら、山上徹也をどう描いただろうかということだ。「何かをぶっ壊してやりたい」という「怒り」。それこそが、若松孝二の作品、若松が率いた若松プロダクションの作品群の多くに流れる哲学だ。若松はデビュー作「甘い罠」を巡って、「警察官を殺すために映画監督になった」と語っている。ぶっ殺したい奴がいたとしても、実際に殺せば犯罪者。だが表現の上でなら、自分が憎むべき『権力』に一撃を加えることができる。いくらでも。幼稚な欲求に突き動かされながら「非常識」なことをやってのける。ここに、表現する意味、映画を撮る意味があるのだと思う。

 「REVOLUTION+1」も、「非常識」な映画になりえた。いや、なりうるといった方が正確かもしれない。国葬の日に全国各地で一斉に公開されたものはあくまで未完成品だ。まだまだ「化ける」余地がある。先述したように作品を巡っては「常識」を振りかざした批判が公開前から付きまとった。そんな「常識」をぶっ壊す作品。「常識」を振りかざす奴らが口をあんぐりと開けてあほ面をさらして何も言えなくなってしまうような「非常識」な作品となることを期待したい。
(了)

【参考引用文献】
1.「『テロ容認するのか』山上容疑者モデルの映画に批判殺到、上映中止も」(産経新聞、2022年9月28日付朝刊)
2.国際政治学者三浦瑠麗氏が2022年9月10日更新の自身の公式ツイッターで、足立監督の「国家に対するリベンジ」との発言を引用し、「革命ごっこの味が忘れられないんでしょうねぇ」と揶揄した。
3.「東大・立花隆ゼミ『見聞伝』08」より。若松が2008年6月23日に東大・立花隆ゼミのインタビューに対して語った言葉('08駒場祭企画『今語られる 東大,学生,全共闘』: 若松孝二氏 インタビュー (kenbunden.net))
4.若松孝二監督インタビュー:ベルリン国際映画祭閉幕特集 [後編] - ドイツ生活情報満載!ドイツニュースダイジェスト (newsdigest.de)

いいなと思ったら応援しよう!