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死ぬことだってかすり傷 『ブッダのことば:スッタニパータ』

 以前、箕輪厚介の『死ぬこと以外かすり傷』が流行りましたね。
 「死ぬこと以外はかすり傷だから、迷ったりためらったりしないでどんどん行動しろ!!」ということなのでしょうが、この本をみかけるたびに「死ぬこと以外かすり傷なのはわかったけどさ、いろいろ行動した後はけっきょく死ぬよね?」とおもっていました。「死ぬこと以外かすり傷」をいいかえれば「死はとりかえしのつかないこと」であり、その根底には死を恐怖する「私」が強烈に存在しているのではないかと邪推したくもなります。

 そんなとき、私はブッダ(お釈迦さん)のことを考えます。ブッダはこの問題に対して「そもそも『私がいる』ということが妄想なんだから、かすり傷もなにもないよ」といっています。

 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、〈名称と形態〉(個体)に執着している。「これこそ真理である」と考えている。
       中村元訳『ブッダのことば:スッタニパータ』岩波文庫,p170


 『ブッダのことば:スッタニパータ』は仏教の経典のなかでも最も古いもののうちのひとつ。煩瑣な教義はいっさいなく、「心を清らかに保ちなさい」「欲望を追いかけても意味ないよ」といった素朴な言葉が詩のような形式を交えて書かれています。読むのが面倒だなという方がいらっしゃいましたら、訳者である中村元の解説がyoutubeにあるのでよかったら聴いてみてください。

 しかし箕輪厚介とブッダで、どうしてこんなに違うのか。なんとなくですが、死の捉え方が原因のひとつであるようにおもいます。「死んだらなにも残らない。人生は死ぬまでの暇つぶし」という考えは、「まあ生きている間に楽しんでおけばいいよね~」という現世利益的な考えへ自然と傾いていく。死んだとしても、自分のいなくなった世界とはもはやなんの関係もありません。そのような人にとっては「いま生きている自分の人生をどうするか」ということだけが問題になります。
 おもしろいのは、「自分の人生だけを考える」ことが逆説的に死に対する恐怖を生むということです。「私」にこだわると、とりもなおさず「私の死」も迫ってくる。

 ただ、『死ぬこと以外かすり傷』みたいな本は間違っている! とはおもいません。こうした本を読んでお金を稼いでいる方がいるとすれば、それはめちゃめちゃ貴いことだからです。また、死後の世界を信じたら、生きるのが楽になるよ! ともおもいません。現代に生きている私たちが、仏像や神社に向かって本気で拝むのは難易度が高いです。
 すこし前に放送していたNHKのこころの時代で、「仏教は自己中心性を抜け出すための教えである」といっているのを聴きましたが、それくらいに考えてみるといいのかもしれません。それこそが難しいので、教えが続いているのだともいえそうですが。
 「死ぬことだってかすり傷」なブッダは、やっぱりバキバキに悟っているのです。

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