Mackey fan note040「もしも」

2016年発売のアルバム「Believer」でラストに収録されている一曲。

この曲は槇原敬之の決意を表したような曲。アルバム自体が「第3章の幕開け」としている事からわかるように、槇原敬之のターニングポイントとして重要な役割を担う楽曲なので、他の曲に興味を持っている段階の人はひと通り聴いた後、一度は通ってみてほしいなと思う楽曲です。

目次

  1. この曲で槇原敬之が伝えたい事

  2. 槇原敬之の宣言

  3. セミの特別感

  4. 単純にここ聴いてほしい

  5. 現状を憂いつつの総括

  6. 余の談


この曲で槇原敬之が伝えたい事

この曲にはあるフレーズが何度も何度も繰り返されている。
以下がその部分。

もしも突然音楽が聞こえない日が来ても
いつでも君の側で僕は
歌い続けるから
誰かを思う気持ちを
目に見えないものがある事を
いつでも君の側で僕は歌い続けるから

この歌詞は6分弱の曲中で計4回も繰り返されている
(※ラストサビだけ「側で」が「為に」に変わっているが)
さらに「誰かを思う気持ち」以降に至っては、ラストに念押すが如く2回繰り返すので計5回。多いね。

サビは同じ歌詞を繰り返すパターンが元々(特に近年は)多いんだけど、ここまで繰り返すのは稀。きっと、本人がこの曲で言いたい事はここの部分に詰まってるんだろう。

「目に見えるものだけが全てじゃない」というメッセージは、この曲に限らず過去の曲でも度々描かれたテーマなので、本人が大切にしている事はそこからも見て取れるのだが、『もしも』からはどうしても伝えたいんだという確固たる意志を感じ取れる

槇原敬之の宣言

だけど、この曲が過去の「目に見えないものを大切に」といった楽曲たちと違う点が一つある。この曲自体は、目に見えないものの大切さを比喩等を持って教えてくる、わけじゃない。むしろ、そういう事を変わらず自分は歌っていく、という宣言をしている

だから、「音楽が聞こえない」というのも字面で捉えたまんまの聴力的な問題じゃなく。Bメロが1・2番両方、生きてて途方に暮れる瞬間を描写している事から考えると、現状に嫌気が差して心を閉じたり、塞ぎこんでしまって音楽なんて聞いてる余裕がないほどまいってしまった精神状態を指しているんじゃないか。

そんな時でも変わらず寄り添って、大切な事を歌い続ける。このアルバムが出るまでの15年程、生きる上で大切な考えを模索し、恋愛だけじゃない、さまざまな人に当てはまるように楽曲を作ってきた槇原敬之だからこそ満を持して出来る宣言。

セミの特別感

もう一つ歌詞で注目したのが、この曲で2番のAメロに登場する「セミ」。

セミという存在は槇原敬之にとって特別。1999年発売、一度目の逮捕前にリリースしたアルバムのタイトル曲『Cicada』(これはまんまセミを英語にしたタイトル)。翌年、復帰作となるアルバム「太陽」に収録の『Ordinary Days』の歌詞に登場する。ターニングポイントとなる2枚のアルバムで、両方ともラストを飾っている。『もしも』も同じく、第3章を迎える「Believer」のラスト。そんな重要な局面で何時も急に姿を現す。

『もしも』で、命つきたセミを以下のように歌っている。

命の限り精一杯
生きたものの残像か
悲しみや哀れさなど
みじんも感じなかった
時間ではなくどう生きたかが
大事と教えている

この曲ではセミの事を、精一杯生きたものの残像と例えている。思えば『Cicada』もそうで、うるさく音を立てるセミを自分に重ね、「伝えたいことがあるから歌う」として。数年間地中に潜り、地上に出てからは数えるほどの命しかない、セミの儚さを丁寧に繊細に解釈していた。これは今も変わっていない事が上記の歌詞からもわかる。

だから槇原敬之にとってセミは単なる夏の季語なんかじゃなく、もっと広く、一生懸命生きる意味を説いてくれる象徴であって、とても神秘的なものなんだろう。夏の季節感、空気感を重視した曲たち(『pool』『夏は憶えている』等)には一切出てこない事からもうかがえる。

そう考えたら、アルバムのラストに持ってくるというのも偶然じゃなく思えてくる。セミを持ち出す時は、「この曲は特別」というサインのようなものと解釈している

単純にここ聴いてほしい

歌詞を掘り下げるとあれこれ言ってしまうのですが、単純によいなと思うところ。全体的にこの曲は、セミを用いたり、歌うことへの覚悟を感じられたり。何となく『Cicada』と『Such a Lovely Place』を2016年の槇原敬之で咀嚼してみた、という印象もあり。

曲はピアノとギターの音中心の力強いバラードで、ここら辺も『Such a Lovely Place』に近い感じがする。基本は優しく丁寧に歌っているのですが、ラストサビに向かう直前にあからさま声に力を入れて歌う箇所があって、そこはかなり上がる。

現状を憂いつつの総括

2020年、槇原敬之とは突然音楽が聞こえなくなってしまう日を迎えてしまった。おそらくは、この歌詞に込めた思いとは全く違う意味で。ん、厳密に言えば、側で歌い続けてくれる人が居なくなったものの音楽は聞こえ続けている状態という方が自分には正しいかもしれない。そういう意味では真逆か。そして、その音楽自体は変わらず寄り添ってくれているんじゃないかなと思うのですが。

どちらにせよ、2020年5月末現在、現状は安心出来る状態じゃないですね。今後どういう道に進むのかもわかりません。ただ、この曲を聞くと、また音楽が聞こえてくる日が訪れるんじゃないかとちょっと安心出来る。生半可な気持ちでこの曲は書けないんじゃないかなと思います。

余の談


過去に「第3章」について結論出ないまま書きなぐった記事があります。
『もしも』にもちょっと触れてたので、お時間あれば併せて読んで頂ければ。

槇原敬之の「第3章」は「失われた1.5章」を取り戻す旅

因みに今回記事をリンクするにあたって、目次を作ったり、太字を使ってみたり、見やすくするための(本来なら最初にしといて当然の)工夫を今更ながらしてみたのと、大幅に加筆修正を加えてみました。おかげで少なくとも修正前の7.5倍くらいは読みやすく、1.2倍くらい読み応えが増したと思います。なので、一度読んだ人ももう一度読んでみて頂けると嬉しいです。まだあれなので今後もアップデートしていければと思いますが。

あえて加筆の中に今年二度目の事件が起きての視点は入れてないです。というか入れると記事で言いたいこと全部破綻しそうだった。実際、一度目の逮捕で第2章が大幅に変わってしまったように、もしも復帰しても、第3章が当初の予定とは大幅に違う方向性で進んでしまう可能性はなくはないと思うのですが。そこも含めて待ちわびていきたいというのが今の本音。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?