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日記

海へ行きたくなった。


最後に海へ行ったのはいつだったか、砂浜へ降り立っていないのも含めれば前回羽田の展望フロアから見たのが最後になる。修学旅行の時のことだから、九月末だ。その前はお盆前の八月三日、さらに前は終業式の七月二十日。これらはカメラロールから日付までカッキリ分かった。


夏に海に行くなら泳いだのかと思われそうだが、泳いでいない上に露出量も海らしからぬ格好で、あの日私は砂浜を歩いていた。学校の帰りに大いなる寄り道をして、制服で灼熱の砂浜を歩いた。歩いただけである。


初めてその海へ自力で赴いた終業式の放課後、私は何も準備をしないで海へ行った。日焼け止めさえ持っていなかった。朝起きた時点で天啓のように「海へ行こう」と、行ったこともないのにぼんやりそう思って、ただそんな決心は目が覚めるにつれ頼りなく薄れていった。財布の中身も、そういえば心許ない。どんぶり勘定をすれば交通費や予備のお金も含めて十分にはあったが、派手に遊べるほどは手持ちが無い。


どうしようかと考えて、友人にそのまま伝えれば「行こう、海。私も行きたい」と言う。ここで決意は固まり、私たちは学校の最寄りの海へ出向いた。家から反対方向なのに加え、学校からも電車とバスを乗り継いで片道約一時間とそれなりに時間はかかる。終業式くらい時間のある日でなければ、そしてまた海へ行きたいという意思がその日より薄ければ、私は海へは行っていなかったと思う。


何の用意も無く行った海でコンガリ焼け、重たく海に不釣り合いなローファーを持って、水道で友人と足の砂を流したのは記憶に新しい。日に焼けると赤くなって皮がむけ、すぐに肌の色が元に戻る私でも夏の日差しには勝てず、それからしばらくクッキリした日焼けが腕に残っていた。今はもうほとんど境目が分からない。知らぬ間にもとに戻ったのだろう。


初めて海へ行ったその日は、帰って風呂に入り、日焼けに効く化粧水を適当に肌に塗りたくってすぐにグッスリ昼寝をした。心地の良い身体的疲労と空調の利いた快適な部屋が、眠気を誘う昼下がりだった。


そんな刺激的な非日常は、日常の悩みを忘れさせてくれた。体力があり余っているために眠れない夜、要らないことを延々と悩んで涙を流していた日々を一度リセットしてくれた。以降心が塞ぎがちになると、海へ行こうと思うようになったのだ。かの友人も同じ思いだったようで、「限界。海行かん?」とLINEが来たのが八月一日のことである。


私は八月三日、母親に「学校の図書室に勉強しに行く。昼は自分で買う」などと適当を言って(母親は海へ行くと言って許してくれるような人間ではないのだ。本人は否定しているが過保護なのである)、また制服で海へ行った。名誉のために言い訳しておくと、ちゃんと学校には行ったし自習もしてきた。メインは海だったというだけだ。


その日の友人は群青色の、素朴で飾り気のないワンピースを着ていた。シンプルでストレートなデザインでありつつ夏らしく軽やかなその服は、彼女によく似合っていた。対する私はまたも無骨な制服で、砂浜に一向に馴染まない革靴である。前回砂浜でポップコーンになったというのに、性懲りもなくビーチサンダルを持っていかなかった。家から持っていったのは数枚のビニール袋だけだ。日焼け止めも家にはあったのだろうが、学校から海へ向かう途中で買った。この辺は隠蔽工作に余念がない。やるなら徹底的に、怪しさの欠片も匂わせたくない。もっとも、私は嘘を吐いてもすぐに見破られるため、親は私如きの嘘など簡単に見破れると慢心している。多少のボロを出しても逆に気付かれないだろうという気持ちも無かったと言えば嘘になるが、憩いをおあずけされては堪らないので、やはり気は引き締まった。


八月の頭ともなれば、七月の砂浜よりも一層アチアチであった。少なくとも裸足で歩けるようなレベルではなかった。見兼ねた友人は何故か二足持っていた片方のサンダルを貸してくれた。私の足がデカいせいで踵がまるまるハミ出たのには衝撃を受けたので、よく覚えている。


その日も前半はポチポチたまに喋るくらいで、お互いぼんやり海を眺めながら適当に浜辺を散歩した。普段は顔を合わせればマシンガントークを一時間でも二時間でもする間柄である。海には人を黙らせる力でもあるんだろうか。それを一言で、「母なる海。」と言って、友人と頷きあった記憶がある。


片耳のみピアスをした海パンの陽気なおじさんに話しかけられて、エイの赤ちゃんがいるというので見に行けば、そいつの死骸なんかが波打ち際にプカプカ浮いていた。生でエイの裏側が見られる機会だ、と友人とかなり格闘したが、健闘むなしく裏側は拝見できなかった。寄せる波と返す波の反復が随分と速いもので、近づいてとっ捕まえることが出来なかったのだ。彼女がエイのしっぽには毒があるというので、それも触れなかった原因である。


その後も散歩を続け、また海岸の入り口近くの砂浜に引き返してくれば子エイが四匹、行儀よく砂浜に並んでいた。どう見ても海から打ち上げられた距離ではない。ほど近くには陽気に騒ぐ高校生、大学生くらいの男子五人グループがいた。というか、夏の海には私たちを除いて陽気な人間しかいない。


私と友人は顔を見合わせた。子エイを並べて干物にしているのは十中八九彼らだ。エイの置き方にこだわりがあったとして(ないとは思うが)、怒られたら怖い。
「裏側、見れるかな」
友人が言う。
「今こっち見てないし大丈夫じゃない?裏返してみよう」
友人は子エイを裏返した。裏側は砂まみれで、よく分からなかった。私たちは閉口して、エイを元の面に戻した。その人たちに怒られることは無かった。


これが保護者の同伴なく海に降り立った二回だけの記憶で、最後に海を見たときはガラス越しだった。修学旅行の日、集合時間より大分早く空港に着き、案内を見れば展望フロアがあるというので、羽田まで送り届けてくれた母親と買い物ついでに行った。滑走路を滑る飛行機も魅力的ではあったが、やはり視線が吸い寄せられるのはその向こう側、海であった。私は迷いつつも、結局隠し事ができない人間なので母に告げた。「実は二回くらい海行ったんだよ。夏休みに」と。母親は絶句していた。隠し通せていたらしい。


小言を食らう覚悟ではいたが、思いのほか怒られることは無かった。「海好きなんだよ海。でも危ないから、今度から羽田にしようかな」と言えば、「できればそうしてほしい」と言われた。母親も海が好きなので、なんとなく私の気持ちを分かってくれたのかもしれなかった。


話が長くなったが、それから三か月ほど経った今日。また、熱烈な海へ行きたい気持ちで胸が満ちた。スケジュールを鑑みて可能であれば、学校の冬期講習後に行っていたと思う。あいにく午後の中途半端な時間に塾の講習が入っていたもので、行くことはできなかった。それに、もう彼女と共に海へ行くことはできない。彼女とは今現在、絶縁状態にあるからだ。些細なきっかけで仲違いし、以降口を利いていない。お互いの性格上悪口も無視も嫌な顔もしないが、廊下ですれ違ってもまるでいないもののように扱う。視界に入ればやんわり目を逸らす。そんな関係だ。


彼女とは共に受験戦争を乗り越えてきた、六年目の友である。考えること、口に出すことが悉く被る人で、同じ脳味噌を使っているかのような会話は彼女以外とはできなかった。周りの友人は「ふたりの会話には入れない。何故会話が成立しているのか分からない」と不思議そうに言っていた。特別仲が良かったかと言われればそうでもないような気もするが、とにかくソウルメイトとか、そういった類の人間である気がしている。今でもそう思う。私にとって、彼女は特別だ。類を見ない。好きだ嫌いだ以前に、何かが同じなのである。未だに私たちの仲違いを知らない共通の友人が、先日「すごーい。○○ちゃんと全くおんなじこと言ってる」とカラカラ笑っていた。私はどう反応していいか分からず、奇妙な薄笑いを返した。事情を知っている別の友人も、なんとも言えない表情をしていた。
まぁ、この辺は言語化できないし、あまり説明しても胡散臭くなるだけなので割愛する。


そんな彼女と距離を置いて早二ヶ月、今まで寂しいと思ったことや、自分から距離を置こうと告げたことを後悔したことは一度もなかった。しかし、今日彼女が、別の友人に何か話しているのを偶然耳にして、それがたまたま私との思い出だったものだから、なんだか突然にものすごく寂しく、無性に悲しく思われたのだ。悲しくなれば海へ行きたくなる。しかもその海には、彼女との思い出が詰まっている。今日の私は、より強く海に惹かれていた。


彼女の口調に嫌味は一切無かった。あるいは、私がそう思いたかっただけかもしれないが。だけれど、彼女の口調に嫌味も敵意も無かったからこそ悲しく思えたのだから、私がそう思い込もうとしているのではないような気がする。悪口を言われている方がよっぽど悲しくなかった。


一度考え方の違いで喧嘩してしまった人間とは、仲直りしてもいずれまた衝突する。関わらない方がお互いのためになる。そう思って生きてきたけれど、はたして必ずしもそうと言い切れるのだろうか。近々また海へ行って、考えてみたいと思う。今度はひとりで自分と向き合うのだ。海へ、意識を引きずり込まれないように気を付けたい。

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