見出し画像

日記

不定期更新の日記再びである。


単刀直入に言うと、落ち込んでいる。私は自身の感情と向き合うのがとても下手であるため、自分が今、正しくはどういう感情なのかも、この感情になってしまった原因もはっきりとは分かっていない。明日か明後日になればもう少しわかると思うが、その頃には気持ちが落ち着いてnoteに書くことはしなそうなので、少しのモヤモヤを蓄積させないためにも気ままに書いておこうと思う。


友人に彼氏がいるらしいと知った。私は恋バナが好きであるので、何か面白いエピソードは無いかと聞いてみたりして、クリスマスにプレゼントを交換し合うらしいことなどを聞いてキャッキャとはしゃぎながら帰ってきた。あの時は間違いなくちゃんとテンションが高かったのだ。


しかし、家の最寄りのバス停に着いた頃から気持ちが陰り始めた。薄雲の掛かる綺麗な月を見て、
「薄雲越えて注ぐ月明かり 君と寄り添ってこの夜道 今夜は月が明るいけど、もう少しこのまま」(「愛き夜道」より)
なんて思い出しながら、ふと気持ちが沈んでいくのを感じた。今夜にぴったりな歌を思い出したのと、気分が塞いでいったのは同時くらいだったように思う。


さてここからは憶測でものを書く。私は一体何に落ち込んでいるのだろうか。答えは明白なようでいて、意外と不透明なので困っている。なのでそのことについての推測をしたい。


私が落ち込んでいるのは、現在恋人がいないことではない。そりゃあ居ればどんなにか、と思うのはしょっちゅうだが、そのために特段努力をしている訳でもなければ本気で恋人を欲している訳でもないのだ。本気ならば自分から動いている。


私が落ち込んでいるのは、一度も告白されたことがないことである。どんな子でも話を聞いてみれば一度や二度は告白されたことがあると言うし、学生のうちに一度も告白されたことないヤツは人間として何かがまずいなんてことも聞く。可もなく不可もない人間でありたい私からすると、これは大いに悩みの種というか、コンプレックスなのだ。しかも告白「される」という受動的発生条件だと、自分から何かができる訳でもない。真人間になるしかないが、何が問題なのか分からない以上改善のしようもない。さらに言えば自分の問題が分かったとして「あぁそれはいけない。直すか」と思える問題かどうかも、直るものかも分からない。だから不透明で、必要以上に悩みの種になっている。しかもつつがなく進級できれば来年で卒業だ。婚期を逃して焦るご婦人の気持ちも段々と分かってきた。私はこれが青春コンプレックスになるんだろうなと半ば確信して怯えていることしかできない。哀れな話である。


再三言うが、これは「なら見た目に気を使いなよ」「自分の悪いところが分かってるなら直しなよ」という問題ではない。上手く言えないが、そうじゃないのだ。伝わるだろうか。伝わらないだろうな。私もよく分かっていなくて言語化できないんだから。


書いていたら更に落ち込んできた。最大限ボカして抽象的に悩みを零して、それでも優しく慰めてくれた母の気持ちを思うといたたまれなくなる。書き手もすっきりしていないし読み手もそうだろうが、この話はここで終わる。以下の文章は脱線というか、今までも薄々思っていたことを整理も兼ねて書く。おまけだと思っていただけると嬉しい。


私は人からの評価が嫌いだ。もう少し正確に言うと序列のつく評価の仕方が嫌いだ。評価の良し悪しではなく、評価される機会そのものが嫌いなのだ。何故なら自己評価が高いからである。自分で自分に満足しているのに、人からの評価を受け取って感情を揺さぶられるなんてことはしたくない。ハイリスクローリターンだ。世間では「数字が欲しい」「注目を浴びたい」人間が多いらしいが、私は嫌なのだ。ひとつの作品に1いいねが付くとする。その途端相対的に他の作品がまとめてマイナス1になる。こういう考え方をする人間がどのくらいいるのか分からないが、昔からこの考え方が抜けないせいで知り合いと相互フォローになるのを避けてきたという背景がある。私が頑なに学校用アカウントを作らないのはこれが原因だ。他人に見られたくない。認知されたくない。評価の対象にされたくない。そういう部分への拒否反応が根深いことは自覚している。推しに認知されたくないどころか、私が認知していない人間には認知されたくない。よく思われたい、悪く思われたいではない。無関心というか、存在すら知られたくないのだ。


驕りでも何でもなく事実として書くが、だから周りがしきりに勧めてくるクリエイティブな学部には行きたくないとつっぱね続けているのだ。私の作品を評価した上での提案だということは分かっているし、ありがたいことだとも思う。しかし「人生何があるか分からないよ」と希望を込めた眼差しで説かれても困る。自分の人格を多分に流し込む作品が、人の評価を真っ向から受ける戦いの舞台に立たされるなんて冗談じゃない。必ずしもいい評価を受ける保証もない。誰も我が子を戦場に行かせたいなんて思わないだろう。同じである。私は私の可愛い我が子たち(作品のことだ)を手元に置いておきたい。私がいちばんこの子たちの良さを分かっているのだから。


世間の様子を鑑みて、私のような人間の方が珍しいのだということはなんとなく理解していたつもりだ。しかし友人に話して驚かれたことで、もっと明確に世間とのズレというか、違和感を感じた。友人は「評価を気にしないなんて、のめり込める趣味があるってことだからきっと楽しいよね。どうしても評価を気にしてしまうから、羨ましい」などと言った。前半は頷ける。後半については、前々から思っていたこと、言いたいことがある。


世間の人間は、「他人の評価を気にしない人間」を「強い人間」、なりたいけれどなれない理想だと判断する傾向にある。同じような話で、ひとりでいることが好きな人間にも同じような視線が向けられる。
しかし私はこの風潮にちょっと待てと言いたい。強いから他人の評価を気にしないのではない。弱いから他人の評価をシャットアウトしているだけだ。人に振り回されやすいから一線を引いているだけだ。強いのではない。むしろ弱い人間である。人といるとその価値観に簡単に左右されるから、ひとりでいなきゃいけないだけだ。人からの評価を気にすることが出来ないのも、なんとなく人といる方が疲れるのも、軸が弱いからなのだ。


私からすれば他人の評価を気にできる人間の方がよっぽど強いと思う。それで傷つく人も多いようなので羨ましいとは思わないが、ただ自分の好きなことで真っ直ぐ外の世界に勝負を仕掛けに行けるのはあまりに強く、眩しいなと思う。私は小説を書くのが好きだが、応募なんてしようと思えないから。


いいたいことは大体言えたような気がするが、まとまりは無いので今後修正が入るかもしれない。今日はここらで締めくくろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?