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大人になると作品にハマれなくなる?

大人になると漫画やアニメにうまく熱量をもって接することができなくなる人がいると最近よく聞く。そういえば自分にも心当たりがあるので、何故なのか考えてみた。


自分はまだ高校生だが、最近のオタ活は令和のオタ活らしくなってきているというか、いまいち作品にのめりこめなくなった。これは何故なのかと振り返ると、良い作品に出会えていないというより自分が大人になったからなのだと思った。
精神的に大人になるというのは、客観視ができるようになることだと思う。認知行動療法のように、客観視ができるようになることで感情的になることを押さえることができたり、主観的視点では見え得ないものを見られたりするため、基本的に客観視ができるようになることは良いことだと言える。


ただ、これがオタ活、もう少し具体的に言うと作品鑑賞となると、厄介なことになる。客観的視点で鑑賞した作品にはあくまで客観的な感想しか出てこず、主観的に作品と向き合うより感動ができなくなるのだ。というより、まったく心に響かないと言っても過言ではないと私は思う。


私がこの歳にして作品に感動できなくなるのはさすがに早すぎると思うが、大人になってから作品に感動できなくなった人は概ね客観視ができるようになったことが要因ではないかと思う。余談だが、私が作品に感動できなくなったのは私の精神年齢が周りより高いとかそういう理由ではなく、単に「作品から創作の手掛かりを得る」ことが日常的に癖になってしまっているからだと思われる。どうしてこのシーンで惹きつけられるのか、心に響くのか。どうしてこのシーンでここに視線が行くのか、記憶に残るのか。魅力的な作品を作り出そうとそういうことばかり考えて作品と向き合っていると、どうしても作品自体には集中ができなくなる。主観的に集中していては大事な要素を見逃すかもしれないからだ。なので、逆説的に私はまだ主観的に作品を見て感動できる余地が若干残っている。


ただ不思議なもので、一度客観性を手に入れると主観的になることが難しい。社会から主観性を求められることもまずないので、「感動」を取り戻したかったらいよいよ本気で能動的に動かなくちゃならない。今のところ目星も何もついていないが、私はこれは不可能なことではないと思う。


主観的視点しか持っていない人が客観性を手に入れるのには訓練が必要だ。しかし逆に言えば、訓練すれば客観性は手に入る。ならば、もともと持っていたはずの主観性をどうして取り戻せないことがあろうか。きっと大人は、社会から求められない主観性をクローゼットの奥にしまっているだけなのだ。取り出してきて磨けば光るはずである。


主観性は何も悪ではない。感情的に自分の視点だけから世界を見ることは、胸躍る体験には必須である。しかし社会を動かす歯車には求められないものなのであろう。ならば切り替えさえできれば良い。客観性を持った大人であるべき時は客観的であればよいし、何かにのめりこんで全身で感動を得たければ主観的であるのが良い。


そしてそれは、きっと訓練次第でできるようになるのだ。もう一度あの頃の感動を取り戻したい大人たちは、少し考え方の練習をしてみてほしい。根拠も何もないが、きっと取り戻せるはずである。


追記:昔見た作品を見返していて思ったが、いまいち没入できず感動できなくなる要因の一端には「知識」もあるかもしれない。大人になると余計な知識がいろいろ付き、作品を鑑賞していても邪念が入る。これにはどう対処したらいいのだろうか。童心に帰るというのは難しいようだ。成長の不可逆性は悩ましいものである。大人になると可能性が狭まるという言葉は、単に学歴の取り返しがつかなくなるとかそういうことだと思っていたが、おそらく身につけた常識や偏見や知識が、まっすぐ世界を見ることの邪魔をするという意味もあるのだろう。またひとつ知見を得た。

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