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私たちは。

こんにちは。ちゃたすけです。

今日も赴くまま書いていきます。

私は私の生まれた時を知りません。
気がついたら私が“私“として生きていました。
誕生日というデータを与えられましたが、使われる歴によってずれてしまう。

そもそも、私って生まれたの?とすら思います。
でも、私はここにいて、世界が顕在化しています。

死についても考えました。
私が死ぬ時はどんなだろう?

祖父が他界した時、まるで深い眠りにつくようでした。

もし、本当に眠ったように他界したなら、そして夢を見ていたなら、私はいつ自分が死んだと自覚できるだろう?と疑問に思いました。

おそらく気がつけません。

私は現実がいつ終わったのかも知らぬまま、夢の世界で生き続けるのかも知れません。

いえ、もしかしたら、私はすでに死んでいて、夢を見続けているかも知れない。

思考や感情が私なのか?と思っていました。

眺めてみると、それはどこから突如として現れ消えていくようです。

肉体のどこに私がいるのか?を考えました。

どこにも見つかりませんでした。
そもそも、私はこの肉体の生命維持になんの関与もしていません。
でも生きてる。不思議に思います。

肉体のどこにも私がいないなら、行動を起こすことは私にできるのでしょうか?
この肉体の操縦室に乗っていないのに、なぜその行動は私が行ったとわかるのでしょうか?

誕生と死の2点を繋げ、私の存在がどこにあるのか感じてみると、私が生まれもしないし死にもしない、ただ夢見る何かな気がしています。

ただこの世界、宇宙を顕在化させている大きな意識のような気がしています。

現実と夢の境はなく、ただ今という永遠を見つめている。

生まれないものは死にません。
肉体を持たぬなら、全てが勝手に起きてくることだと感じます。

夢の中にいても、現実にいたとしても、幸せな人は幸せなのでしょう。

もしかしたら生きるとは、ただ目覚め、永遠の夢を至福の中で眺めているだけのことかもしれません。

今日もありがとうございます。

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