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愛だったか...

こんばんは。夜な夜なちゃたすけっす。

神様に引っ張られるように、私の自我も知恵をいただけているので書いていきます。

今回は満たされた人間は行動を起こすのか?についてです。

ある時から自分がどんどん変わっていくのを感じています。
ただ“在る“という状態になってしまう時があって...
つまり、“私“が存在しなくなってきています。

どんな感覚かと言うと、なーんにもしなくても幸せなんです。全部完璧です。

そして、全てが溶け合って、物質界が至福の幻に見えてます。
幸福なただ唯一の光の世界こそ真実なんだなぁ〜なんて見えます。

(昔の私ならびっくりしてしまう発言です笑)

この意識の時って“私“がいないので、行動を起こしてるのがわからなかったんです。

“私“が意図したもののみを行動と認識していたので。

自我からの行動は、意識レベルが高くなければ“欲“から発せられることが多いと思います。

”〜が足りない“が先に来る。

ということは、満たされてしまったら私は行動しないんじゃないかな〜なんて思ってたんです。

だから、自分がこの意識の時に行動を起こしてると理解できなかった。知覚出来ずにいました。

“私“という自我からは理解できない行動だったんです。

なぜかと言うと、人が愛から純粋に行動することがあると理解してなかったからです。

こんな当たり前のことですが、わからなかったんです。

どんだけカラカラだったねん笑

何のニーズもない。
誰かの期待に応えるでもない。
与えたい欲求に駆られるでもない。

そんなピュアな愛からの行動がこの世に存在するなんて...そしてそれを自分が行えているなんて...

満たされてると、無意識ですが、自然に愛の行動を起こしてしまうようです。

愛が溢れて行動になる。
結果に全く期待をしない行動。

そしてなんとですね...
目から鱗だったんですが...

“私の肉体“が“私“が消滅することによって、ただの“肉体“になり、純粋な神様の創造物でありつつ、神と一体化します。

は?って感じですよね笑

つまり、相手も私も肉体があるのに、隔たりがないんです。

全てのものとの隔たりは“私“というものだったようで、これが消えることで、肉体と自己同一化が解けて、自分を愛せるようになるんですよ。

不思議ですねぇ...

“私“を手放すことで、自分も相手も、全てのものを分け隔てなく公平に愛せるようになります。

慈愛とは、私を愛そうとする“私“を手放して、あるがままになること。
そして、手放すことで初めて私は私に愛されるようです。

自分を含めた、全てのものと調和のとれた愛の行動になります。

今日もありがとうございます。

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