見出し画像

長くまがりくねった道14

2009年になり、CRMディレクターの管理と兼務で営業の事務サポート部隊の管理職に異動となった。実はこの異動は最終的に私を営業から追い出すための謀略であった。営業事務サポート部隊は当時信じられないような無駄な作業を抱えていて、見積書に社判を押す仕事とか、売り上げ計上の書類をひたすらコピーするとかの仕事をすることで、私が何か新しい事をできなくするという陰謀であった。本当にあきれるくらいの執拗さである。「とにかく君はこの席に座って黙って印鑑をおしていればいい!」といことをあからさまにいうような人間の下で働くことがどれほど苦痛であったことだろうか。

同時に企画部門を抱えることになったが、来年にはその部署をなくすという計画が前提であったため、以前にプロモーションディレクターという部署を立ち上げたときとは全く環境が変わってしまっていた。企画部門を育てるというようなことは、むしろ望まれていなかったのである。

翌年の4月が来て、いよいよ58歳で降格と異動をすることとなる。監査室に異動となり同時に専任部長という役職に降格された。専任部長というのは部下を持たない部長ということで、当然給与も格段に下がる。営業本部長にしてみれば「島流し」の終了だったのだろう。普通なら、おとなしく定年を待つなんて考えるだろうと思われていたと思う。また、この時期、大阪支社長にならないか?と社長から打診されたが断った。断ってしまえば、これ以上の出世はないとわかっていたが、これもまた営業本部長の陰謀だとわかっていたので、断固拒否した。大阪に行ってしまえば、この会社の改善に直接関与することができなくなることはわかっていたからだ。さらに社長に呼ばれて、いくつまで会社にいるつもりだ?と聞かれた。当時の社長は老人が目障りでしかたがないようで、首にはしないが仕事を選ぶことはさせないと面と向かっていうような態度であった。それでもこのまま終わるのはいやなので、親の面倒も見なければならないので、まだ引退するわけにいかないとこらえた。

 

監査室に異動になった時、当時の監査室長から言われたのは、「所詮内部監査なので、一生懸命やってもしょうがない。」という言葉だった。内部監査とは、文字通りの役割を果たすとすると、社内に抱えている問題を洗い出し、それらを白日の下にさらすこと。そして社長直轄の組織の権限をもって問題点の原因とその解決に向けて、各部門に社長名で指示を出していくというようなものだ。監査の世間一般での常識は、第3者的に「職業的懐疑心」を持って社内のあらゆる活動を監視し、指摘だけするという役割を果たすことだ。しかし、所詮はオーナー会社で社長が白と言えば黒いものも白くなるという体質の中で何をいってもしょうがない。とりあえず無難に毒にも薬にもならないような事を指摘して済ませておけば良いという考え方もあるだろう。また、私は監査だから指摘はするが、どうせやるのはあなたたちなので、というような態度はとるつもりは一切なかった。このような企業体質の中で何十年も育ってきた私は、絶対違うやり方で会社を変えてやろうと思っていた。監査室では今までの監査のように防火体制とか現金管理体制とか計上処理の事務処理早期化とか、どーでもいいような監査をするつもりはなく、(申し訳ないが、前監査室長の監査はそんなものばかりだった)最初に取り組んだのが「事故報告書の管理体制」だ。当時業務本部と営業本部でばらばらに保管されていた事故報告書を一つのシステムで管理するように、監査の結果「勧告」を出して改善させた。営業と業務でバラバラに事故報告書を管理していたのは、臭いものにはふたをするため、あまりわかりやすい管理をしないという事情からであった。営業本部長にしてみれば、自分が葬りさったと思ったゾンビが生き返って反撃してきたように思ったのではないか。現に赤い顔を真っ赤にして文句を言っていることが聞こえてきた。でも、監査という逆らえない立場を使い、今までの矛盾を解決した。そうこうするうち、私が監査室に異動した年の暮に監査室長だった監査室長が病気で倒れ、そのまま退社となってしまった。右も左もわからないまま、監査室長を務めなくてはならなくなり、上記のような考え方を貫いていくことになる。

また、同じ時期に業務監理グループという組織を監査室の下に置くことになる。そもそも、何年か前から、社長の発案でできたその組織は、業務部門の毎日の仕事が決まり通りに行われているかを監視する部隊であった。しかし、私が着任した当時はうまく機能を果たせていなかった。その原因は部署の構成員にあった。社長からは単純に現場の部署がミスを起こしたりするのは、決まりを守ろうとしないからだ!お前たちはとにかく難しいことを考えなくていいから、決まりが守られていえるかを毎日巡回して監視しろ!と言われていた。しかし、その当時現場で仕事をするにあたっての決まりがはっきりしていなかった。文書化もされず、先輩からの口伝で祖語とのやり方を引き継いでいただけで、何が正しいかの基準になるものがなかった。そんな中、業務監理グループの面々はと言えば、私より先輩の定年退職者がパートで継続している人、また営業の責任者まで勤めたが、社長に嫌われて業務部門に転属させられた人、などであった。中途半端な仕事の知識をもって自由に業務の進行状況を監査するものだから、思い込みにより抜き打ちで指摘をしてしまい、現場の責任者から怒鳴りこまれた事もあった。彼らにしてみれば、自分は社長のかわりに現場を監査し、指摘をおこなっているのだから文句は言わせない、といった考え方であった。併せて、そのような経歴の人から見れば、私など若造で何もしらないのに監査の責任者となっていて気に食わないことおびただしいのであった。さらには、作業部門の長である業務本部長は我々の仕事が、社長のスパイとなって本社に告げ口をする役割にしか見えていなかった。「本社の犬」と呼ばれて、指摘をしても本気で受け取ってもらえなかった。そのくせ、あちこちでミスは多発していた。そのような中、現場との調整を行い、部員には監査の視点をしつこく教え込み、そのうち先輩だった社員は卒業して行き人が入れ替わった。加えて同時期に会社として品質管理の外部認証資格をとることになり、外部の審査機関から調査を受けた際に、この毎日巡回して業務監査を行うという仕組みが評価されることになった。

 

2011年3月11日その日私は埼玉の事業所にいた。丁度電話をしている最中にグラッと揺れがおそった。あわてて電話を切りしばらく様子をみたが、揺れは収まるどころかますます激しくなっていった。その時見た光景は今でも忘れないが、1t近くある積載物がゆらゆらと揺れており、工場内では「機械を止めろ!!」という怒号に近い叫び声が飛んでいた。私はまだ揺れがおさまらないうちに廊下に出たが、まるで船の中で歩いているようにまっすぐに歩けない状態だった。それから工場の全員がトラックヤードに集合し、点呼を行っていたが、そんな事態は初めてだったので、全員の無事が確認できたのは1時間ぐらいたってからであった。その日は仕事にならないので、帰宅して良いとの指示がでたが、帰宅したくても電車が全部止まってしまっており帰宅などできなかった。テレビを見ると津波にのみこまれていく状況が映し出されており、現実に日本で起こっているかの実感がわかなかった。自宅に戻れたのは翌日だった。そこからは計画停電との闘いで、平常に戻るまでは数週間を要した。

さらに私にとって衝撃的な事件は翌年に起こる。会社では管理職が交代で朝8時45分から5分間の放送を行っていた。2月3日の朝、その朝が私の最後の放送担当であった。この朝の放送は私にとって、自分の考えをプレゼンテーションする重要な機会ととらえていた。その最後の放送だったので、数週間前から原稿を準備し、万全の体制で臨んだ。ところが、放送の時間が近づくにつれて肩がものすごく痛くなってきた。最後には息ができないくらいの激痛となった。それでも朝の放送は必死で行ったが、終わった後耐えられないので自宅に帰った。その足で病院に行くと、「あなたは心筋梗塞をおこしています。これからすぐに手術します」と言われた。カテーテル治療という方法で手術が行われ、激痛は収まった。しかし、そのまま集中治療室で1週間程度絶対安静となった。入院期間は2週間程度であったが、病院に行くのがもう少し遅ければ、死んでいたところであった。

さて、このように個人的には大事件が起こっていたが、復帰して監査の仕事に戻ると、その後の内部監査は、全社を視野に入れ、私がそれまで経験してきた各部門で問題ありととらえたものをテーマとして取り上げ、なるべく思い切った形で指摘し、時には改善の回答を期限付きで求めるものもあった。したがって監査のテーマとして取り上げるものがあきらかに今までとは違ったものとなった。監査というものの在り方は、どの教科書を見ても直接指示をしてはいけない。と書いてある。しかし、建前だけで言ってしまえばその通りだが、問題を抱えている部署があり、そのテーマがその部署だけでは解決つけられない問題ならば、監査を通して問題の指摘を行うのと同時にその解決方法についての示唆を行うのが私の行ってきた監査だ。たかだか300人程度の会社で、部署の役割について厳密に規定していても他に誰も解決できない問題については、わかる人がその方向性を示し、解決を促していくこと。これは「こうしなさい」と言いっぱなしで責任を回避する態度とは全く違う。所詮はこの程度の会社で、誰も手をつけられない問題について、わかっている人間がその解決にあたるのは私には当然の事のように思われたからだ。その結果、社長からは何度も「これは監査のやることか?」と言われてきたが、そんな事は百も承知でやってきた。

一例としては下記のようなものだ

2013年

業務マニュアル整備状況 業務マニュアルの中身が整備されていない→見直しと改善につながる

返送物管理状況  当時の業務本部長山形は「返送物はゴミだ」と言っていたものの管理状況改善

発送日報運用状況 重要なリリース承認に関わる手順が未整備→発送日報運用の改善につながる

2014年

受注書の記載内容の整合性  受注書起票については営業がずっと抱えている問題点である

              →受注書起票ガイドライン作成につながる

ソリューション部門の運用状況 私から取り上げたソリューション営業の惨状を暴露

場内在庫管理状況       整備されていない場内在庫の実態→いまだに改善できていない

2015年

返送物管理状況        一向に改善されない返送物管理状況


2016年以降は監査等委員となり、直接内部監査担当からははずれるが、現在に至るまでも内部監査に関しては計画段階から関与し、実行に関しても直接一緒に監査を行い、監査報告についても担当しているのと同じように行ってきた。監査を行う事により、各部が抱える問題点を指摘し、改善できたものもいくつかあると自負しているが、この会社が基本的に持っている隠ぺい体質、なかよし体質の中では、かなり強引に指摘をしてきたつもりであるが、私がはずれてしまえば元にもどってしまうものがほとんどであろうと思う。会社というのは生き物で、つねに発展するだけではなく、ある部分では後退してしまうことがあるからだ。その時々において動いていく会社の状況をとらえて、特に課題としてとりあげなくてはいけないものを監査にかけていくことは、簡単なようでいてなかなか難しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?