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12歳の私が経験した東日本大震災

1.地震発生

小学校卒業を間近に控えていた、12歳の私。震災当日の金曜日、その日は6年生だけに振る舞われるバイキング給食を堪能する一方、度重なる卒業式練習による疲労の蓄積も切に感じる日だった。

昼前に放課となり、午後はクラスの友人達と学校に集まって遊ぼうということで、私は校庭西端にあった、タイヤ遊具の上で待ちぼうけとなっていた。既に集まっている何人かが、遊具の近辺でDSやカードゲームに興じていたその時。

校庭各所に散開していた人影が、一斉に校庭中央部に走りゆく光景を見る。

体育の授業の終わり、あるいは避難訓練等においてはこのようなことはさして珍しいことではない。しかし既に放課後となった14時46分、私には彼らが校庭中央へ一気に集まっていくその理由を瞬時には理解し得なかった。

そしてその理由はすぐに判明する。低く不気味に鳴り響く轟音と共に、地面が大きく波打ち出したのだ。

それはよくできた形容などではなく、文字通り波打っている。固く踏みしめられたはずの校庭は途端にその安定性を失い、事の重大さを否が応でも認識させたのだった。

私も走る。

校庭中央、皆が集まる場所へ走る。

走り際、右手にあった体育館の窓ガラスはバシャバシャと音を立て、これが地震であるということを瞬間に理解した。


2.地震発生直後

どれぐらい揺れが続いたか。体が揺れを覚え続け、気持ちの悪い感覚に苛まれる。先般窓ガラスを唸らせていた体育館から、館内で練習を行っていた合唱部児童がようやく外に出てきた。男子児童は「何で泣くんだよ~」と囃し立てるが、合唱部の女子児童は「怖かったんだよ!」「電球が落ちてきた」と、見る限りほとんどが目に涙を浮かべている。

急いで体育館脇の出入り口から中を伺うと、天井の電球や梁がいくつか落ちている。写真を撮った直後、危険だからという理由で学校職員は直ちにその扉を閉めてしまった。

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その後、教頭の拡声器により、地震の発生と帰宅を促す旨を伝えられる。大きな地震であったことは間違いない。体育館の中の様子もそれを物語っている。

しかしながら、見渡す限りでは家屋の倒壊や火災の発生といった、目に見えた被害は確認できない。「校庭が使えないから、○○公園に再集合ね」ということになり、一時的に学校を後にすることにした。帰り道、消防車がサイレンを鳴らして通り過ぎていく。


3.家の被害を知る

当時の私は家の正面玄関の鍵を託されておらず、一人で家に出入りするときには鍵を持っている勝手口からであった。真っ先に被害を確認したのは、勝手口入ってすぐのキッチンの床に散乱する食器であった。それを皮切りに、各部屋の被害が明らかになっていく。

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4.数時間の孤独

家内の被害状況が明らかとなり、次に確認したのはテレビだった。電気が通っていれば、今何が起きているかを把握することができる。

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いくつかチャンネルを回し、地震の概況把握に努める。起きる起きると言われていた、東北太平洋沖の巨大地震。鮮烈に覚えているのは、仙台平野を津波が飲み込む様子を放送していた、NHKのニュースである。そこでようやく、大変な事態が起こっていることを理解したのだった。

急いで母に電話する。つながらない。すぐ近くの祖父母の家に電話する。つながらない。祖母の携帯にも電話する。つながらない。覚えている家族の電話番号全てに電話をかけるが、一向につながらない。

ここから数時間、私は孤独となった。

近所にはそこそこ大きな広場があり、毎年3月になると河津桜が咲き誇る。広場には地震のせいだろうか、数十人以上が各所で様子を伺い、動揺している。そこで級友を見つけた私は、彼を家に招いて少しの間一緒に家の片付けを手伝ってくれないかと声をかけた。

テレビのニュースを流しっぱなしにしながら、割れた皿や落ちた物を片付ける。時々大きな余震が襲う。級友は夕方を過ぎる頃には帰宅してしまい、再び孤独と直面する。

そのとき、家での電話が初めて鳴った。愛知に住む大叔父から、地震を心配する電話であった。毎年夏休みに訪ね、田園の合間の道を走るトラクターのハンドルを握らせてくれる、よく知る人からの電話に安堵する。その後、祖母からもようやく電話がかかってきたが、外出先で足止めを食らっているというものだった。しかし母とも連絡がとれず、ましてや車も運転できるわけないから、どうしようもない。折返し電話する旨を伝えて、一旦家内の後片付けに戻ることにした。

外が暗くなる頃、妹の安否がふと頭に浮かぶ。小学校は既に終わっているから、いるとしたらまだ学校か、あるいは学童か。思い立った私は祖母に誕生日プレゼントでもらったラジオに電池を突っ込み、自転車の前カゴに乗せて漕ぎ出した。

まず向かったのは、地震発生当時私がいた小学校。職員が防災倉庫周辺にいるが、そもそも体育館内が先程の状況であるため、避難所が開設されているかどうかも判然としない。ここにはいないと判断し、目的地を学童へと変える。途中のコンビニエンスストアの公衆電話には数人が列をなしていた。

学童に到着した私に、職員は「お母さんが連れて帰りましたよ」と告げる。ここで母と妹の安否がようやく確認できた。家に帰り、私は数時間の孤独からようやく開放されたのだった。


5.徹夜で祖母をピックアップ

夕飯を済ませると、祖母から2度めの電話が入る。電車が止まっているため、迎えに来てほしいとのことだった。同行のため車に乗り込もうとしたときも、外にいても分かる余震が起きていた。

道路状況は異常であった。各所の道の脇には、水道管の破裂によるものと思われる漏水が見える。少し進むと、渋滞に拘束される。1時間かけて100メートル進めたかどうかという渋滞。地震発生時からずっと家の片付けを行っていた私は、助手席に座りながらも酷い睡魔に襲われていた。

起きたときには、すでに目的地に到着していた。駅のロータリ―にあったコンビニ、そこの公衆電話にはまたもや行列ができている。帰り道は比較的スムーズであったように記憶しているが、それでも自宅につく頃、東の空は既に白けていた。2012年3月12日、日の出時刻は5時57分であった。


6.あとがき

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震災から10年を迎える今年、あの日の体験を忘れないため、noteの記事にしました。当時の様子を事細かに覚えているのは、もちろん震災のショックもあるのでしょうが、12歳の私が記憶の新しいうちにテキストとして当日の様子を書き残してくれていたことも大きいかと思います。

そして今年の3月には、東北・三陸地方を震災後初めて訪問しようと計画しています。実際に津波の甚大な被害を受けた土地はどのような場所であるのか。10年という時間は、私達に何を教訓として醸成してきたのか。4月から行政に入り、防災の最前線を担うことになる自分が、ことにあたって何を知らなければならないか。そして一人でも多くの人命を助けるために何ができるか、必要な見聞を広げてきたいと思っています(noteにも投稿したいと考えています)。

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