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#2 たとえ何かを損なっていても、演じなければいけない大人像

ただ年齢を重ねれば大人になれる訳ではない。私たちが限りなく「大人」に近似した存在であるためには、ただ生きてさえいれば手に入る年齢以外にも、自ずから積極的に求め、備えておいたほうが望ましいアクセサリーが数多くある。
それらは、然るべき学校の卒業証書や自分を養うことのできる食い扶持、または新たな家族と、その下に招かれる未来の子どもといったものなど。
このような定式は、多様化が浸透した令和の時代にあっても、暗黙裡に、社会を色濃く塗りつぶしているように見える。

私たちはある1点を境にして大人へと突然変異するわけでもない。徐々に自らを大人たる役者へと近似させていく。その舞台はまさしく「演じる」ことによってようやく立つことができる場所であり、与えられた脚本は各々異なるけれども、みな同じ場所で演者たる大人を振る舞うことにより、舞台世界にはサスティナブルな調和がもたらされる。

「大人は最低限、演じさえできればそれでいい。」

ある演者はこのように思うだろう。
何も望んで踊っている訳ではない。私たちは安全な観客席にいたのに、10代後半以降のあるタイミングにおいて、期待と蔑みのたうち回るスポットライトの下へと引き上げられただけなのだ。
ならば最低限、今日を生きることができるよう役者であろう。
そう割り切って舞台に立つのだ。

ところが、大人を演じなければいけない子どもたちは誰しも、万人が認め羨む、きらびやかで、十分なだけのアクセサリーを身に着けている者ばかりではない。それは、様々な要因…本人の性格や考え方のクセ、その時々の環境、空気感、周りをとりまく人々の言動といった諸要因の集合結果による。
SNS全盛時代にあって、同じタイミングで舞台に上がった同輩たちを全く視界に入れないことは、もはや不可能だ。
適切なタイミング、適切な環境、適切な努力、適切な勇気が備わっていれば、あるいは違ったかもしれない。あの日あの時、足りなかったいくつもの”適切さ”が古傷へと姿を変え、痛み始める。

そして先の演者は思うのだ。

あぁ私は、やっぱり何かしらを損なっている。損なったまま演じている。

私を大人たらしめる主要素たる社会人生活は、なにぶん容赦がない。
気が付けば、時計の針が出勤時から一周している。
重い足取りで帰りの駅へと向かう。
吊革にのしかかるのは体の重みだけではない。
冷凍パスタに、500W5分の魔法をかけてみる。
永遠に続くかのような繁忙に、心を失いそうになる。
友人たちは演者を飛び越え、大人そのものに見えるようになる。
眠りにつくその瞬間まで、私はこれから先も無事に、大人を演じ続けられるのだろうかと、不安にうなされる。
過去を振り返り、「あのとき私はどうして、」と自問自答してばかりの大人、いや、自問自答してばかりの子どもがそこにいる。

大人は子どもの自分をその内に留めている。
何かを損なっているという痛覚を伴いながらも、今日も懸命に舞台に立つ大人がいる。
少なくとも私はそうであり、命尽き、この演目が終わるまで、痛みは消えることはないのかもしれない。

ならば痛みは、せめて優しさの源に。
願わくばいつか、古傷を癒し、損なっていたものを埋め合わせられるよう実直に、大人を演じ切ることができるエンドロールを望みながら、役者でありたい。

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