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BIO+FORM 考 自然と建築の幸せな関係 #01 『自然をどうみるか:技術観の転換』

ここまで「パーマカルチャーとバイオシェルター」に言及していましすが、そのご紹介はもうちょっと先にします。
大晦日ですので、少し大きな話を書いて、来年に繋げることにします。

■いわゆる「環境問題」
現代は「環境問題」が喫緊の課題、となっています。これは今に始まったわけではなく、1972年にローマクラブ「成長の限界」を著したことに象徴するように、ずっと以前から警鐘が鳴らされていたことです。ですが、人々はあまりこれを深刻に受け取らず、現代の技術文明を謳歌してきました。
いよいよ抜き差しならぬ状況を迎えていることに、少しずつ「茹でガエル」になっていることに気づき始めている次第です。ですが、一口に「環境問題」と言っても、それは多岐にわたります。
・気候変動と脱炭素
・消費と廃棄の問題
・水の問題
・都市の課題
・貧困とアンフェアな社会
などなど。現在は何か問題が二酸化炭素の多い少ない、に矮小化されていて、それはそれで大事な話ですが、問題の本質は残念ながらそこではない、と思います。また、何か環境問題は、人間の「外側で起きている」と捉えられがちですが、果たして、その認識は合っているのでしょうか、、、、この現代の技術文明は、利便性と引き換えにその裏でさまざまな負の遺産も残してきました。環境容量が人間の活動に比べて、まだまだ大きかった時代や、搾取される人々が支配する人々よりだいぶ多かった時代には、その負の側面はあまり注目されてきませんでした。人々はまだまだ大丈夫、と目を瞑っていたのです。環境や自然や生態系と言われているものは、(それぞれ言葉として細かな定義はあるでしょうが、ここでは総体的な人間を取り巻く自然界全体、ぐらいの意味で)それこそ総体的なものですから、それを分節して細かな分析的な理解をすると同時に、全体的な理解も大事だと思います。環境「問題」は同時多発的に起きているのであって、決して二酸化炭素の問題だけではありません。二酸化炭素を語る同じ熱量で、他の問題も語る必要があるのではないか、と思うのです。また、問題は、自然の仕組みに寄り添った技術文明体系になっていないことと、それを認識する人間側のその理解力が足りないことにあるのではないでしょうか。つまり、問題は、外で起きているのではなく、人々の内側の問題でもあると思います。

■「脱炭素」をどうみるか
気候変動の大きな要因として人間活動が排出する二酸化炭素が大きく寄与しているといいます。地球には温暖化と寒冷化を繰り返してきた自然のリズムがあると言われていて、現代の温暖化もまだよくわかっていない部分もあるのだろう、と思います。(これについては、異論があるのもよく理解しています。ただ、人智を超えた自然の仕組み、というのはあり得る、少なくともそうした可能性について頭の片隅に置いておく、ということがむしろ科学的である、と思います。)
ただ、事実として、気候の急激な変動には生態系と人間活動が追いつかないことから、その原因の可能性が大きい二酸化炭素排出への対策が急がれているのが現状です。
一方、ここで問題を二酸化炭素の排出量を減らすための「効率論」だけで論じることになると、問題の本質を見誤るのではないか、と思います。
人類が「進化」と共にエネルギー中毒の状態に陥っていることにこそ、そもそも着眼すべき点であり、そうした文明の体質そのものの転換が求められているという視点を持つべきだろうと思うのです。
現代社会の「飽食しながらジムに通う」こと、が象徴しているように、そもそも根本的な意識と体質の転換無くしては、この「もっともっと文明」はいつまで経っても克服できず、問題解決のための技術はまた新たな問題を生む、という堂々巡りを招いているように思います。

■人間の振る舞いと自然 
自然の仕組みはそれそのものが多様で、多元的、立体的にできています。そうした中で営む人間の暮らしもその原理から外れて成立できないのは自明です。
人は自然との応答の中で、常にその自然の圧力にさらされているのであり、その調整こそが暮らしであり、生命である、と言っても過言ではありません。
現代技術はその調整を全てまさに技術に委ねる、という驕りがあるのであり、その技術は万能ではない、という謙虚さがいささか欠けていると思います。
人間の作為的行為という動的な自然への働きかけは時として有効ですが、パッシブな自然的行為に寄り添って、生きていく、ということも改めて人が前近代まで持っていた態度を再度思い出して、改めて獲得していくことが今まさに必要なのだと思います。
自然との間合いの取り方のトレーニングが極端に減ってしまった現代。人間が「生命」である以上は、その生命の輪の中で生きていくのは自ずと然るべき=「自然」の状態であり、その振る舞いを空間的、時間的な所作に落とし込んでいく作業が建築の世界にも必要なんだろうと考えます。

レイチェル カーソン著『沈黙の春」 自然は全て繋がっている

■技術観の転換
さて、そうは言っても、やはりエネルギー問題は切迫した問題ではあります。
環境問題の中でもとりわけ、省エネ技術を更に模索していく必要があるでしょう。
その一方で、省エネ技術が更なるエネルギー消費を促してきたことのパラドックスにも目を向けておくべきでしょう。蒸気機関の発明は石炭の合理的利用を促したが、そのため産業革命が進み、現代のエネルギー消費過多の時代につながっている。昨今の家電製品、車などの省エネ技術は目覚ましいが、その数が更に普及することで、全体のエネルギー消費量はさほど下がっていない。大量生産/消費型の仕組みが続く限りは、その生産廃棄過程でのエネルギー問題は無くならない。エアコンが実現する室内の快適性=外部環境の不快、のように個別の快適性が上がっても、全体の利益が損なわれているのです。
今、技術は文明の利点と環境問題のバランスが問われています。化石資源の使用量を少なくする、というだけの視野狭窄に陥ることなく、より広い視野に立った技術観を持つことが必要であろうと思います。
自然の仕組みはバランスをとりながら、少しずつ進化をしているのであり、エネルギー多消費を背景とした急激な進歩は果たして本当に「進歩」なのか、、、?自然の仕組みに改めて学ぶ、ということはまず、その総体性と相対性ということに着目すべきだろうと。 そうして自然は「全体最適」の仕組みを獲得しています。
しかしながら、現代の技術の多くは、「部分最適」を目指している、あるいは技術者の専門性の範囲の中での理解と判断があり、結果的に限定的な利益しか実現していないのが実情です。
そうした視点に立って、これからの環境と建築を考えたいのです。
建築は現代技術を背景とした「性能の良い箱」を目指すのか? それとも自然新和的なワザをまとったやわからい存在であるべきなのか、、、、
これからの環境と建築を展望する時、技術の理解に加えて、「自然の理解」をまず深めることが急務ではないでしょうか。

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