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仏教ってなに? 基礎編ー10  (諸行無常・諸法無我の本当の意味)

諸行無常・諸法無我

 そもそも何故、諸行無常と言うのでしょうか?一般的には「諸行とは縁起によって生じたもの、つまり、様々な現象すべてのこと」というような説明がされていますが、より厳密に言葉を検証して行くと、諸行の「行」とはサンスクリットでsaṃskāraと言うことばで本来の意味は「潜在的な形成力」というような意味です。仏教的には、十二因縁の所で出てきた「無明」の次に来る決定的に重要な要素で「行」(自他分離の妄想によって)世界を仮構する「働き」の事です。つまり、本当のものごとの在り方を知らない根源的な無知(無明)を根本原因として、架空の「自分」を作り上げようする自他分離(自分とそれ以外のものを分離し、世界を仮構しようとする)の「働き」の事で、諸行とはそれらの働きによって仮構されたものすべてのことです。
 そして、前にご説明したように「無明」つまり本当のものごとの在り方を知らない根源的な無知は、釈尊の発見された「中道」つまり「自分という一つの視点を設定しない、それに依らない、囚われない」というものの見方を知らない事です。
 要するに、中道を知らない無明に囚われた人は、自分と言う一つの視点を設定し、その自分と言う視点を設定することによって、自分以外の多数の他者を仮構することになり、その多数の他者に対して、愛、憎、執着するが、全ての他者は自他分離の妄想によって仮構されているために、本来的に分離・軋轢をその本質とし、愛と分離、憎と軋轢は不可避であり、その苦悩は中道を悟るまで続くということです。
 そして、「行」(自分と言う一つの視点を設定することによって、自分以外の多数の他者を仮構する働き)によって仮構されたあらゆるものは、自分と他者又は他者同士の比較分類によって相対的に仮構された半ば関係性の結節点に名称を付けたのみの実体のないものであり「名称通りの本質・実体」(我)を持ったものが実在している訳ではない。そのような自分の意識が仮構し、比較分類したものに名称をつけたものを仏教用語では「法」と呼び様々な法つまり「諸法」には「その名称に対応する実体」(我)があるわけでないということで「諸法無我」と言われるわけです。(後に、この無我の概念は「空」という言葉で言い直されます。)
 この「法」という言葉は大変紛らわしい言葉で、元のサンスクリットではdharmaと言って大変よく知られた言葉です。第一義的には「原理・法則」と言うような意味ですが、仏教では釈尊はdharmaを説いたということで、「真理・教え」と言う意味で使われています。従って先に出て来た、人間の意識が仮構したものという意味での「法」というのは、極めて派生的な使い方であると言えます。
 所で、人間の意識が仮構したものは全て名称と概念のみで、それに対応する実体はないとする「諸法無我」は比較的分かり易いと思いますが、人間の意識によって仮構されたものが無常であると言う必然性は必ずしも明快ではありません。
 それは、時間というものの本質にかかわる問題だからです。アインシュタインの相対性理論が発表されるまでは、時間とは極めて客観的なものであり、宇宙全体のあらゆるものをその支配下に置く番人のような客観的な「時間」というものが存在すると思われていました。
 つまり、宇宙のどこに居ようが、どんな乗り物に乗っていようが、全ての時計は同じ時間を刻んでいると信じられてきたわけです。
 所が、アインシュタインの相対性理論によって、時間は存在個々の運動状態によるものであって、個々の運動状態が異なれば、それぞれの時間も全て異なるということが分りました。つまり、時間というものは、個々の視点を持つのもの固有のものであり、それぞれの運動状態が違えば時間の経過の仕方も全く異なるということです。
 しかし、この世界の全てものが時間を持っているかと言うと、そうではないのです。どの一点にも止まらない、時間とは無縁のものがあるのです。それは、光です。光は光速で移動する為、光においては時間は完全に止まるのです。しかも、光速で移動するものの長さは無限に縮む為、光が通過するところにあるもの全ては、光から見ると光速で過ぎ去っていく為、例え10億キロの距離でもゼロになるのです。
 よく、夜空の星を見上げて、あの星の光は一万年前のものだよ!なんて言っていますが、確かに我々人間の視点から見ると、一万光年離れた星からの光は、一万年かけて地球まで飛んできて、しかも気の遠くなるような距離を飛んできていることになるのですが、当の光自体の視点から見ると、光には時間が無いのと、その星と地球までの距離は光にとっては光速で過ぎ去るため距離は「ゼロ」になり、その星からの光は一秒も経たずに、1メートルも旅することなく瞬時に地球に到達しているのです。
 これがアインシュタインの相対性理論が意味することです。信じられない人はご自分でご確認してみてください。これは驚くべき事実を示唆しているのです。
 つまり、時間と言うものは特定の視点に固有のものであり、光のように、特定の視点に留まらずに、常に光速の状態にあるものには時間も空間も存在しないと言うことです。
 また、このサイトの最初の方で述べましたように、私達が見ている世界は一見外に拡がっているように見えていますが、実は心の内側から来ている情報が意識というプロジェクターを通して外側へと投影されている可能性があることをご説明致しました。夜空の星の光も、実は我々の内側からやって来ていて、我々の意識という一つの視点を通じて外側に投影される時点で、一万光年という時間と何兆キロと言う距離が仮構されるのかも知れません。
 つまり、諸行無常とは、中道を知らない人が、自分という1つの視点に囚われた意識によって相対的な世界を自分の周りに仮構し、そこでは、すべてのものが時間に支配されていて、変化しないものは何一つ無いという状況を表す言葉だと思います。 
 と言うことは、自分と言う視点を設定せずに、どの一点にも留まらない完全なる中道の心境になれれば、光そのもののような時間も空間も無い、あらゆる相対的な視点を超えた境地に到達できるのかもしれません。そういう境地こそが釈尊が到達された境地なのかもしれません。そのような境地はあらゆる相対的な境地を超えているため、比較・対照・差別化・分類によって成り立っている言語というものでは一切表現できないものであり、従って人に伝えることも困難な境地だったのだ思います。
 釈尊の悟りが、光そのものの状態のように時間も空間もない境地なのであれば、一万年前の光が実は瞬時に届いている光であるように、釈尊の悟りというものも、一万年前でも一万年先にでも瞬時に我々の元に届いているものであり、その気になれば何時でも我々が触れ得るものなのかもしれません。それこそが、法華経などで説かれる久遠実成佛などの仏の永遠性の意味なのかもしれません。
 このように、釈尊の説かれた中道の境地というものは、あらゆる相対的な視点を超えたものであり、従ってそこには時間も空間も無いが、時間を越えて、全ての仮構された存在と瞬時に触れ合える境地でもあるといえるかも知れません。
 我々のような普通の人間が、釈尊のように完全なる中道の心境になるのは至難のわざだと思いますが、要は、日頃から自分という1つの視点に拘るのをやめて、いつも他者の幸せを願い、他者の視点に立って考える癖をつけていけば、少しは、中道に近づけるのかもしれません。そして、釈尊が完全に到達された境地を一瞬だけでも垣間見ることが出来るかもしれません。
 と言うことは、普通の日常生活の中でも、自分の主張ばかりするのではなく、家族、友人、同僚の立場に立って考えるくせをつけるようにしていけば、自分の視点からだけでは見えなかったことが見えるようになってくるし、周りの人達の気持ちも理解できるようになると言うことです。これは、極めて当たり前の事ですが、このように自分の視点から脱却することこそが、実践的に釈尊の説かれた中道に近づく道なのだと思います。

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