仏教ってなに? 応用編ー3 (菩薩ってなに?)
菩薩
先にご説明した阿羅漢のように、自分の修行に専念して出来るだけ早く涅槃に入ろうとするのは、基本的には自分という妄想から脱却するための一番直接的な方法であると言えます。だからこそ、釈尊も最初から弟子になった人々にそういう方法を教えられたのだと思います。また、基本的に自分という存在が本当のものごとのあり方を知らない無知により妄想されたものであるならば、その自分と対比して妄想されるに至った多くの他者という存在も本来は妄想されたものであり、本当は実体の無いものですから、それらの存在に囚われるのは一種の執着であり、あらゆる執着を根絶やしにする修行にとっては妨げとなるものであるといえます。
しかしながら、我々自身が自分という存在は単なる妄想で、本当は実体が無いとはとても思えないように、多くの他者も皆そう思っているわけであり、例え、悟った人から見れば皆妄想の中でもがき苦しんでいるだけなのかもしれないけど、少なくとも、究極的に悟りを開いてその事実に気づくまでは、我々の苦しみも多くの他者の苦しみも否定のしようのない現実であり、そういう苦しみの真っ只中にいる人からすれば、例え悟った人から、あなたの苦しみは単なる妄想によるものだといわれても、「大きなお世話だ!」ぐらいにしか思えないと思います。
ちょっと前に自殺してしまった往年の名歌手であった藤圭子は、ずっと鬱病に悩まされていたそうです。彼女は原因不明の激痛に苦しめられていたそうですが、肉体的な原因は全く無く、単なる精神的な原因だったそうで、治療のしようも無く余計に手の施しようが無かったそうです。つまり、彼女の激痛こそ正に妄想によるものであったわけですが、いくら妄想だと言われても、その激痛が治まる訳ではなく、最終的には彼女を死に追いやる程彼女を苦しめ続けました。
このように、人々の苦しみや悲しみというものは、その原因が妄想と執着であって本来は実体の無いものであるとしても、その事実に気づくまでは、厳然とした現実として人々を苦しめ続けているわけであり、さらに殆どの人々が悟りとは無縁な状態に置かれている状況を考えると、そのような苦しんでいる人々を無視して自分だけの修行に励むと言うのは社会的にも倫理的にもどうなのか?と言う疑問を多くの人が持ったものと思われます。
又、倫理的にも本当に自分に執着しないと言うのであれば、自分であろうが他者であろうが、その大切さに差は無いわけですから、苦しんでいる他者をしり目に自分だけ修行して自分だけ悟りを開こうと言うのは、反って自分という観念に囚われいる証拠であるとも言えなくも無いわけです。
そういう発想から生まれて来たのが菩薩という生き方です。菩薩とは言葉の意味としては、悟りの中に生きるものと言う意味ですが、菩薩は阿羅漢のように、自分の生存の原因を根絶やしにはせずに、あえて他者の幸せを願うという大きな執着を保持して、それを原動力として何度も輪廻の世界に生まれ変わってきては、他者の悟りとそれによる苦しみの軽減に寄与できるように自らの一生を捧げるのです。
つまり、菩薩にとっては自分も他者も大切さにおいては変わりがなく、従って、悟りの為の修行も自分と他者と同時に共に行じれるものでなければ意味が無いわけです。
又、現実の生活のなかで、いつも他者の幸せを願い他者と苦しみも悲しみも喜びも分かち合うような生活を続けて行くうちに、自然と自分という一つの視点に囚われる事が無くなり、少しずつ中道の境地が身についてくる訳です。
阿羅漢のように、徹底した瞑想と自覚の修行によって自分という視点そのものを根絶やしにするのも、自分を脱却するための一つの道ですが、菩薩のように、常に他者の立場に立ってものを考え、彼らの気持ちをおもんばかり、共感し続けて行くうちに、自然と我を忘れた状態になる、つまり、自分という視点を越えた境地に達するというのも、確実に自分を脱却するもう一つの道であると言えます。
このように、釈尊の説かれた自分という妄想とそれを超えていく道筋には、複数の道があり、上記の二つ以外の道も提唱されるようになり、それらが後に様々な仏教の違った形として展開していくことになったものと思われます。
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