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Communio~孤独のままに、孤独感を分かち合う~

事情を抱えながら平然と生きる人々


気持ちは、うまく言葉にできない。

数年前に比べれば随分、
書くという行為で感情を整理・表現できるようになってきた私だが、
その前提は変わらない。

うまく言葉にできたならば相手に誤解を生まずに本心を伝えられるだろうにと思い悩んだことが、私自身何度もある。

好きな人に対して好きだと言える人もいれば言えない人もいる。
同じ「好き」でも色んな「好き」がある。
A君のBさんに対する「好き」は、CさんのD君に対する「好き」とは違う。文字は一緒でも、その二文字にはそれぞれの固有の世界が詰まっている。

「好き」と言えない人は、「好き」という二文字に単純に凝縮できない、
もしくは凝縮してしまいたくない複雑な感情が渦巻いている最中なのかもしれない。
「嫌い」でも同じことが言えるだろう。感情を表す単語というのは便利だが、同じ人間が存在しないのと同様に、二つとして同じ感情は無い。


好きな言葉に、
作家・伊集院静の「人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている」という言葉がある。

人間関係の網目で、
気持ちを言葉にすることが、まるで良くないことであるかのような錯覚を抱くときがある。
気持ちが全て嘘偽りなく言葉にされたとすれば、その言葉は向けられた人を傷つけることもある。
生の気持ちは、良くも悪くも鋭利さを持っている。
だからこそ、生の気持ちは言葉にせずに、事情を抱えていても平然と生きることを選ぶ時もあるだろう。

他人を傷つけないように、誤解を生まないように、空気を読んで生きる。
本音と建前を使い分けるのが社会だと自分に言い聞かせながら、
いつの間にか本音と建前のバランスが大きく崩れ、
気がつけば本音を言ったり書いたりする時間が無い。
そして訪れるのは、「自分の本音は自分以外誰も知らない」という孤独感。
ていうか本音ってなんだっけと、
一体何をこの身体に宿しているのか、途方に暮れることもある。


専攻柄、「治る」とは何かについて考えている。
そして“治ること”と孤独感の解消には、関係があるのではないかと、たまに考える。

では孤独感の解消には、自分の気持ちを誰かにわかってもらう必要がある?

以前の私はそう考えていたが、果たしてそうだろうか。

人のことを理解する(分かる)ということは、可能なのだろうか。
何をもって理解できたと言えるのか。

わかりあえないけれど、わかちあえるものがある

映画『モンスターズ・ユニバーシティ』の中で、
マイクがサリーに「君に僕の気持ちなんか分かるもんか(You do not know how I feel.)」と言うシーンがある。

一流の怖がらせ屋になるために努力をしてきたマイクが、
いくら努力をしても才能に恵まれたサリーに勝てないことを知り、
自暴自棄になるシーンだ。

そこでサリーがマイクに返した言葉が、印象的だった。

サリーは、
「君の気持ちは分からないけど、ダメなやつは君だけじゃないよ(I’ll never know how you feel, but you’re not the only failure here.)」
と言ったのだった。
そして、自分も本当は欠点を沢山抱えているということを初めてマイクに語り出すのだ。
その後、いがみ合っていたマイクとサリーの間に友情が芽生える。

そう、相手の気持ちは、本当はすぐには分からない
でもそのことに真摯に向き合い(自己一致:congruence)、
「あなたの気持ちは理解できないけれど私は」という姿勢で対話することは、それだけで相手にとって、いやお互いにとって治療的な意味を持つことがあるのかもしれない。


「心からわかりあえないんだよ、すぐには」
「心からわかりあえないんだよ、初めからは」
この点が、いま日本人が直面しているコミュニケーション観の大きな転換の本質だろうと私は考えている。


引用:平田オリザ著『わかりあえないことから-コミュケーション能力とは何か』2012年.講談社現代新書. p.208


人は生きれば生きるほど、
当然ながら、他の人とは違う体験を積み重ねていく。
身の周りに起こる大小様々な事件や事故をくぐり抜けて、
資格を上乗せしながら、あるいはときに履歴書に傷をつけながら、
本当の自己紹介というのは複雑になり、簡単ではなくなっていく。
分かって欲しい事情は増える一方、
いちいち自分の人生をこと細かに説明した解説書を持って配り歩くわけにはいかないので、
自分という人間を名刺サイズにおさめて、本音は建前の後ろにかくして、
平然と生きてみせる。

このようなことを考えていると、
本当に人は孤独だなと思ってしまう。
自分の事情は自分のものでしかなく、
自分の課題は他の誰が解決してくれるものでもないのだから。


“コミュニケーション”の元々の意味はなんだったか。
ラテン語のcommunioには、「分け合う」「分かち合う」という意味があると、尊敬する先生が仰っていたのを覚えている。

マイクはサリーとお互いの本音を話し合った。
しかし、マイクが怖がらせ屋になることができないという事情は解決していない。
変わることのない事情は、そのままにある。

だけど、マイクとサリーには友情が生まれた。
何故か。


私は未だに孤独だが、
平然を装う必要の無い相手がいたり、居場所があるとき、
孤独感は解消されるときがある。
そのような居場所は案外、
<家庭>や<学校>、<職場>以外にもあるものだ。

孤独が不変でも、
それでいいんじゃないか。

みんなちがうのはあたりまえ。
わからないのはあたりまえ。
でも、分かち合えるものはあるはずだ。

事情がそれぞれ違うのは当然のことだということをまず認識し、
その上で、“困り感”や“孤独感”を分かち合う。


そうやって、一人が独りじゃなくなっていくのかな。

今日も平然、お疲れさまです。

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