読書感想-「同志少女よ、敵を撃て」逢坂冬馬
話題だとは知りながら、ここまで歴史考証を踏まえた質の高い作品とは思わなかった。故郷を焼かれた少女が、狙撃手として復讐する。
■1か所に留まるな。自分の弾が最後だと思うな。賢いのが自分だけだと思うな――。前線に身を投じた主人公セラフィマだが、その厳しさは想像以上だった。
■戦場は、偶然に命を選別する。死者に、生者は何もしてやれない。相まみえる敵も人間である。こうした冷たい事実を突きつけられ、読者の感情も狂ってゆく。
■戦争に勝者はいない。戦後、銃を捨てた彼女の日常が、戦争に対する唯一の、割に合わない「勝利」である。
主人公セラフィマは家族を奪われ、故郷を焼かれ、復讐を誓った。その彼女ですら、教官に「なぜ戦うのか」と問われ、懊悩する場面がある。
敵を撃っても、禍根を断つことはできない。もし死んだ母親や村の人たちをよみがえらせることができたなら、彼女は復讐ではなく、そちらを選んだだろう。
時間を巻き戻して、失ったものを取り戻す、あるいは起きた悲劇をなくし、やり直す。これしか人間を本当に救う道はない。そして、そんな道などありはしない。
誤解を恐れずに言えば、復讐とは、いつも的外れで、虚しい行動である。しかし多くの場合、ほかにやりようがないのも事実だ。
それを確かめるために、彼女は人を殺さなくてはならなかった。
取り返しのつかないことだ。しかし彼女を責める読み手はいないだろう。ここに、こうした構図を生み出したという、この点に、「戦争」の罪があると思う。
失った命は元に戻ることはなく、代わりになる命もまた存在しない。
物語の最後、かつての「少女」はそれを知る。平和の大切さを思う。生活のありがたさを思う。
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