第12回 天使と尼僧
「『ブッダ』を繰り返し読んでいたせいで、輪廻転生の考えが染みついてしまって、だからクモを見ても、このクモがもし死んだひいおじいちゃんの生まれ変わりだったらどうしよう、って考えてしまって殺せないんだよね」
となりの席のヤマダにだけ話しかけているつもりだったがクラス全員に聞こえていたらしく、教室はしんと静まり返っていた。困惑した表情を浮かべる三十九人ぶんの冷ややかな目がわたしに向けられており、ため息や、「頭おかしい」とか「あいつはやっぱりヤバい」という声が聞こえた。ヤマダは、一刻も早くこの状況が過ぎ去ってほしい、という様子でうつむいている。教壇に立っていた国語の先生が顔を真っ赤にして、そろそろ授業を始めますがよろしいですか、と尋ねた。おそらく共感性羞恥というやつだろう。
この出来事があったとき、わたしは18歳になっていたのでほとんど大人といってよかった。とっくの昔に分別がついていないとおかしい年齢だったが、それでも本当にこういうことがあった。それからすこしして古典の授業で、高貴な女たちが「御髪おろす」、すなわち出家する、という表現に触れるたびに、「現代でもあいつならやりかねない」、「同窓会に瀬戸内寂聴みたいな恰好で現れたらどうしよう」とささやかれた。
出家はしていない。輪廻転生だって昔ほどは信じていない。死生観はいまを生きる人間のためにあったほうがいいと、個人的には考えている。だからよりよく生きるため、いまのわたしは「永劫回帰」を採用している。もしわたしが終末思想を採用すれば、「終わりよければすべてよし」と考えて過程を軽視してしまうだろう。輪廻転生を採用すれば、「来世に期待」と投げやりになってしまいそうだ。その点、永劫回帰ならば、「どの一瞬もかけがえがないのだから大切にしよう」と思えるし、憎み合って仲たがいしたひとについても、「こんなことになってしまったけど、かつて楽しく過ごした時間があったことは事実だし、考えようによってはその時間は永遠とも言える」ととらえられて、気が楽になる。「○○は××だった」という事実そのものは、たとえ○○が××であることをやめて△△や□□になろうと変わるものではないから、永劫回帰を完全に否定することはできない。万物が流転しても事実そのものは不変だ。
こういうことをひとに話すと、虫けらでも見たような顔になるので口にしない。スーパーで値引きのシールの貼られた傷みかけの舞茸をそっと手に取ったとき、(やっぱ永劫回帰っしょ)と思う程度だ。
絶対におみくじをひかないと決めてからだいぶ経つ。以前は人並みにおみくじをひいていたし、周りと見せあって話題のひとつにしていた。だがおみくじは、言ったら悪いが、人間の考えた言葉が印刷されたただの紙だ。内容を一年間記憶し続けることなんてできないし、新年のはじめに末吉なんて出たら、出鼻をくじかれた気持ちになる。たとえ大吉が出たとしても、直後にインフルエンザに罹患したり家の鍵を紛失したりすれば、大吉の幻影に苦しめられることになるだろう。おみくじ一回二百円として、十年で二千円ならば結構な金額だ。だったらそのお金でとんかつが食べたい。
同じような理由で御朱印も集めないし、お祓いも行かない。パワーストーンも買わないが、観光地で売られている、「色に応じた利益をもたらすとされるビーズを抱えた、触り心地のよい毛で覆われた小動物のキーホルダー」は、誰もご利益を信じないからこそ、かえって集めてみてもいい。パワースポットは、そこに木が多いだけだ。普段は街で暮らしていていきなり木が多い場所に行ったら、特別な気がするだろう。プラシーボ効果は馬鹿にできないからその意味では「ご利益」だってあるのかもしれないが、プラシーボ効果はそれがプラシーボ効果だとわかっていても効果を発揮するものらしい。だったらわたしはどれも信じない。
こういった態度は世間では大人げないとされているのでなるべく隠すし、他者の行動にも評価をくださないよう心掛けている。「晴れ男」も「ジンクス」もすべて認知バイアスだが、せっかく楽しんでいるのにそう言って水を差してくるやつはダサい。わかってはいるが、その話題のときは会話に参加せずへらへら笑うだけだから、内心では冷めているのがばれていることだろう。それが宗教だとは認識されないほどのちょっとした宗教的行為は、感情に折り合いをつけたり、思いもよらなかったことについて考える機会を生んだり、警句を何度も思い起こすきっかけになったりするから、きっと合理性も効果もある。でも、それがまるで宗教ではないようなとりすました顔をしているところに、わたしはいらだちを覚える。
足場が崩れてどうしようもなくなるくらい何かを信仰しているひとは、セクシーである。仕事の一環として陰謀論を利用していたはずが、いつしか陰謀論こそが真実なのだと泣きながら熱弁するようになったあのひとを見かけるたびに、画面の向こう側へ行って、駆け寄って抱きしめてあげたくなる。あなたのほうがよっぽど「ヤバいよね」だと、一方的に断じたくもなるが、同時に愛おしさが身体の奥底から湧き出てくる。信じることは高潔だ。信じることの高潔さは野生動物の高潔さによく似ている。だから何かを盲目的に信じている人はみな、美しくて野蛮である。関わりたくはないけれど。
スーパーのお菓子売り場でしゃがみこんだ妹が、次から次へとお菓子の箱を手にしては、耳元で振って音を確かめている。これは過去の光景なので妹はまだ8歳で、だからわたしは12歳だ。お菓子のパッケージには、不思議な形をした鳥のような生き物が描かれている。妹はその場に置かれているすべての箱の音を真剣な顔で注意深く確かめてから、
「おねえちゃんはこれ」
と言って、わたしにひと箱手渡した。妹もひとつ選び、ふたつ揃えて母の持つ買い物かごに入れる。翌日、学校から帰るなり、わくわくしながらお菓子を手に取ってひも状のガイドをひっぱりセロハンを剥がすと、「くちばし」と呼ばれる箱の一部位には、やっぱり銀のエンゼルがいた。
「当たったよ!」
妹のほうを見ると、妹は当然という顔をして手に持つ銀のエンゼルを見せた。ということが、翌週もあった。そのまた翌週もあった。次々と銀のエンゼルが当たった。コツを教えてほしいと請うと、
「音が違うんだよね」
と、妹は言った。
「ほらエンゼルの箱のほうが、音がすこし高い。わかった?」
わかるような、わからないようなだった。いや、わからなかった。だからわたしは銀のエンゼルを当てられないままだったが、妹が選んだものはほとんど当たりだった。勝率は70%くらいだったから、実際の銀のエンゼルの割合と比較すればそのすごさがわかるだろう。銀のエンゼルはみるみる貯まり、五人のエンゼルと交換できる「おもちゃのカンヅメ」が家にいくつもあった。
やがてそのお菓子を買わなくなった。妹が味に飽きたからだった。わたしは、ピーナッツ味はそれほどでもないがキャラメル味は好きなので、いまもたまに買って食べるものの、エンゼルは決して当たらない。妹は強運の持ち主で、この冬、凍結した道を運転していて赤信号の前でブレーキが効かなくなり、慌ててサイドブレーキをかけたらスリップしてその場で180度回転したのだが、身体も車も無傷で、運よく反対車線に入って何事もなかったかのように走り去ったと言っていた。わたしはほとんどのことを信じないが、妹だけは信じている。
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