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私の『リメンバリング オキナワ 沖縄島定点探訪』

『リメンバリング オキナワ 沖縄島定点探訪』を見た父の第一声は、「丸國懐かしいな~校則違反の制服はここで買ったな」でした。
トゥーヴァージンズ営業部の奥間です。
ちなみに母は真面目だったからそんなことはしてないとひと蹴りしておりました。

2023年2月2日(木)に発売した、沖縄の戦後復興期と現代の55箇所定点写真を紹介する『リメンバリング オキナワ 沖縄島定点探訪』。
みなさまは既にお手にとられましたでしょうか。

1998年(平成10年)、復帰27年の沖縄県那覇市生まれの私ですが、もちろん戦後復興期の記憶はなく、物心がついたころには現代と変わらぬ沖縄の景色でした。
私の祖父母は1939年(昭和14年)に生まれ、沖縄戦を幼い時に経験し、青春時代をアメリカ世で過ごしました。

多分、東南植物楽園にて家族写真

祖父は戦時中は台湾に住んでおり、戦後すぐに沖縄宮古に戻ってきました。その後本書でも紹介している首里城跡地時代の琉球大学に通っていたとのこと。
祖父は本書にある「アイゼンハワー来沖」の写真を私に見せて、
「当時学生運動が流行っていてね。アイゼンハワーが沖縄に来た時、僕もそこでデモやってたよ。隅っこにいたけど、どっかに写ってそうだね」と呟いていました。
「アイゼンハワー来沖」の場所には、大きなホテルが建ち、よく母とランチに行っております。バイキングがおいしいんです…

祖母はライカムの将校クラブの美容院で姉と一緒に働いていたそう。
その後、祖母の姉は沖縄市の外人住宅街で美容室を開き、祖母も祖母の姉もアメリカ人を相手に仕事をしていたので、当時は英語がペラペラ喋れたとのこと。
当時は基地での仕事が沖縄の経済を支えていたため、英語で仕事をする人は少なくはなかったのではないでしょうか。

母の出生証明書

私の母1965年(昭和40年)、沖縄復帰の7年前に生まれました。
米国人スタッフや患者が多いアドベンチストメディカルセンターで生まれた母の出生証明書は英語でした。
「子どもの頃は1ドルもってたら大金持ちだったよ。塩せんべい1枚1セントだったかな。よくいっせんまちゃー(一銭まちや)に買いに行ったな~」

本書にある「少年会館」は私が生まれたときにも建物はあり(記憶はないですが)、2012年に老朽化で解体されました。
映画館やプラネタリウムがあったそうで、毎回本を開くたびに母は「狼少年ケンを観た」と、後ろから父が「俺は仮面の忍者 赤影を観た」と言っています。
プラネタリウムは今は牧志のほしぞら公民館で見ることができ、高校生のときにはよく遊びにいきました。(塾のさぼりで)

名護も祖母の地元でよく行ったし、ジミーで毎年クリスマスはチキンを買って、糸満のロータリーは運転が難しくて嫌いで、、と話出したらきりがないですが…
いつもはなかなか話をしてくれない認知症の祖母も本を渡したら昔話を沢山してくれて、本書はそれくらい沢山の人の思い出、記憶がつまった本になってるのではないかと思います。

また、そんな思い出話も含めた本書のトークイベントを4月9日(日)に開催します。オンラインでも参加可能なので、是非沖縄県外の方もオンラインで遊びにいらしてくださいね。
https://online.maruzenjunkudo.co.jp/products/j70050-230409

そして最後まで読んでくれたあなたに、せっかくなので『リメンバリング オキナワ』をテーマにMIXをつくりました。

是非本書を片手に昔の沖縄を感じながら、今の沖縄を眺めにドライブをする際には是非聞いてみてください。(私は本書ではなく泡盛片手に…)

また沖縄の思い出話がしたくなったら、こちらで話させてください。
みなさまの思い出も是非コメントでお待ちしております。

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