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第17回 存在しない夏 ’24

[編集部からの連載ご案内]
『うろん紀行』でも知られるわかしょ文庫さんによる、不気味さや歪みや奇妙なものの先に見える「美しきもの」へと迫る随筆。今回は夏の終わりの記憶と思いきや……。(月1回更新予定)


この連載ではエッセイを書くことになっている。実際に起きた出来事をもとに筆者の所感がまとめられた文章は「エッセイ」であり、その形式に沿ってわたしも連載の文章を書いてきたはずだった。でもさ、もう現実に書きたいことがなくなっちゃったんだよね。太ってきたこととか、うんざりすることもたくさんあるなかで、静岡までお墓参りに行って山中で迷子になって車にひかれかけたり、久しぶりに会った地元の友人がイタリア人みたいになっていたり、わたしは充実の夏を過ごしていた。しかし、だからといって書き残さなくっていい。噛み砕いて新たな意味づけをすることなく、忘れてしまったって構わない。昆虫採集みたいに虫眼鏡を近づけて隅々まで観察し、薬品に漬けて腐らないように加工して、箱の中にピンで留めて標本にして誰かに見せてまわらなくていい。生きたまま野に放つことに決めた虹色に光る甲虫は、わたしの人差し指の腹を歩いて先端に到着すると、硬い羽の奥から柔らかな羽を広げて、ぶんと音を立てて飛び立っていった。
 
一面のセイタカアワダチソウが揺れている。よく晴れているから、誰かにちぎられたような雲は数えるほどしか浮いていないけれども、風が乾燥しているために暑くはない。低い音のするほうに顔を向けると、遠くから電車がやってくるのが見えた。ワンマン車両だ。わたしがいるのは駅のホームだから、そのまま乗り込む。乗客は数えるほどしかいない。進行方向に向かって並んでいる座席のひとつに腰かけて、リュックを下ろして駅弁を取り出す。膝の上で包み紙を剥がして、抗菌効果のあるフィルムを割りばしでよけた。骨伝導で響く音を聞きながら茄子のお新香を食べていると、生乾きの洗濯物と雑巾の間の臭いがした。ふりむくと臭いの発生源は肥満した男性で、息をきらしよろめきながら歩いている。側頭部をはさみこむタイプのスポーツ用の眼鏡をかけていて、頭頂部は禿げあがって日焼けしており、細い産毛の間に玉の汗が見える。しかし白髪交じりの襟足は長く、なぜか右半分だけを三つ編みにして、ハローキティのヘアゴムで乱雑にくくっていた。最悪なのはその男性がユニクロユーの茶色のチェックの半袖シャツを着ていたことで、なぜならわたしもまさにいま全く同じそのシャツを着ているからだ。
 
「ハローキティ」はわたしの前の席にどっかと座った。鼻が麻痺してきたらしく、もう悪臭を感じないのでわたしはごまのふってあるごはんを小さな梅干しにバウンドさせて口に運ぶ。途端に前の座席がぐるりと半回転し、わたしは慌てて両足を跳ね上げた。危うく巻き込まれて挟まれるところだった。
 
「いやだなあ、そんなにびっくりして」
 
向かい合わせになったハローキティはにこやかな顔で言った。やっぱりシャツはお揃いだった。
 
「全部既知のことでしょう。自分で好き勝手書いてるんだから。現実を書き表すことに興味を失ってしまったから、こうして美しい夏の思い出をでっちあげようとしている」
 
いきなりなんだというのか。返す言葉がないときは無視するに越したことはない。わたしはうつむき、ひと口サイズのさわらの西京焼きを口にいれた。
 
「なんでも好き勝手にできるんだったら、八代目市川染五郎でも出しとけばよかったんです。そうしないでオデを登場させたのは、歌舞伎のメイクアップをした染五郎を見ていると、美しさのあまり感動を通り越して、『は?』という呆れと怒りにとらわれ、何も考えられなくなるから。それでも染五郎は美醜以上にもっと大きな運命のもと生きざるをえないのだから、よっぽど醜いだけの人間よりも哀れだとオデなんかは思うんですが」
 
聞こえていないふりをして窓の向こうを見る。どこもかしこも外来種のセイタカアワダチソウしか生えていない。根から他の植物の成長を抑制する成分がでているのだ。
 
「醜い人間としてオデを出したんなら危ういですよ。醜さを男性性に仮託するのは卑怯です。エイジズムでもある。旅のイメージに醜い人間が必要なら、自分ひとりだけ出しておけばよかった」
 
ハローキティは手に持っている紙パックのいちごミルクをじゅうと吸った。うるさいな、失礼ですよ。抗議をしたかったが口いっぱいに米が詰まっていたので、ただもごもごとした音になる。
 
「さっきから申し上げているとおり、これは本当に起こったことではない。JR北海道は廃線続き。こんな電車も景色もないし、オデも存在しない。全部あんたの頭がでっちあげていることだ。まあ、あんたは普段から本当のことなんてなにひとつ書いていなくて、でっちあげばかりですが」
 
そんなことないです。本当に起こったことも書いていますよ、盛ったりはしているけれども。今度ははっきりと言った。電車は速度をあげ、十センチほど開けた窓から風が絶え間なくはいり、わたしの髪の毛をもてあそぶ。
 
「自分の周囲を切り売りするためには、いままで以上に手厚く気配りをするか、関係を絶つかしかない。あんたは怠惰だから、切り売りはよくないなんてほざいて、でっちあげるほうに舵を切った。でも、どこぞの馬の骨とも知れない人間のでっちあげなんて、誰が読むものか。結局みんな、切り売りしか興味ないんです」
 
むっとして、黒酢あんのかかった肉団子を口に運んだ。続いてウドのぬたに箸を伸ばす。ハローキティは淡い青に色落ちしたデニムのポケットに手をいれ、文庫本を三冊、取り出した。三冊はシリーズものでそれぞれの表紙に、への字口の紳士の写真が使われている。ハローキティはわたしに一冊手渡し、読むように促した。一方で自分は、残りの二冊をかわるがわる手にとっては開き、目についた箇所をぶつぶつと音読した。わたしは手渡された本を黙読した。
 
「どうです。あんたには逆立ちしたって書けない文章です。美しい文章を読みたいんだったら、死んだひとの文章を読めばいい。死んだひとは、急に陰謀論を騙ることもないし、新しく罪を犯すこともない。裏切らないんです。社会が忘れかけた語彙が読者にインスピレーションをもたらすし、ちょっとしたエキゾチシズムすらも与えてくれます。誰もnoteで書いている作家に美しい文章を求めていないし、あんたには特にそんなこと期待していない。必要とされているのはちょっとしたTipsか、ひとより正しくありたいという欲望へのくすぐりだけ。あんたごときが見出した『美しさ』が、毎月わざわざページにアクセスして、画面に詰まった小さな文字を追わせるほどの動機なんて与えられっこないんです。本来できたことはせいぜい、人生を切り売りして小銭を稼ぐことだけだ。みんな、ちょっとした不幸を辛辣な筆致で露悪的に書いてあるのを読んで、『このひとしんどそうだな。自分のほうがマシ』って思いたいだけなんだから。有り体に言えばマーケティング不足、あるいは自分の実力を、実態より遥かに高く見積もったかってところですな」
 
耳をつんざくような音がして窓の外は真っ暗になった。トンネルのなかにはいったらしい。
 
「どうしてそんなこと言われなきゃいけない、という顔をしていますな。簡単です。あんたが言われたがっているからです」
 
電車は短いトンネルを抜けて、元の通りに黄色い花しか見当たらない草原が現れる。
 
「あんたにとって文章は、『立身出世の道具』でしかなくなってしまったのではないですか。あんたが何かを読んでシンプルに心動かされることはもうなくて、自分の文章に活かすために骨を割って髄をしゃぶるみたいにしか味わうことができない。でも、ずいぶんと消化不良みたいですな。せめて得られるものがあれば、今回だって子供だましの『美しさ』なんてものが提示できたでしょうに。いやどうも、不満げで結構。自分はいくらでも嘘をつけるしでっちあげられる、みたいな顔をしている。それではやってごらんなさい」
 
わたしは割り箸を膝の上の弁当に置き、両方のこめかみに人差し指と中指の腹を当ててまぶたを閉じ念じた。けたたましい鳴き声がして目を開けた。ウサギより大きいくらいの茶色い獣が数十頭、群れを成して電車と並走している。
 
「キョンだ。しかしキョンは北海道にはいない。どうしてエゾシカじゃない」
 
ハローキティの言葉をかき消すようにして、キョンは人間の悲鳴のような甲高い鳴き声を出し、走る速度を増していく。一頭が鳴けばまた一頭と、呼応しながらキョンは百頭ばかりに増えた。まるで恐ろしい出来事でもあったかのようにいくつもの金切り声が草原に響き渡っていく。用水路のような小さな川が流れているのが見えた。水面でなにかが陽の光を反射して光った。
 
「やや、グッピーが飛び跳ねている。それに、ブラックバスやブルーギルも。釣り人が楽しむためだけに放流したのか。ここにいてはいけない魚たちなのに」
 
ぶんと音を立てて、大きな甲虫が電車のなかにはいりこむ。
 
「ヘラクレスオオカブトがいるじゃないか。越冬できっこないのに」
 
ハローキティは手ではらうが、まるでそれが合図だったかのように見たことのない色鮮やかな虫が次から次へと窓から侵入し、ハローキティの服や髪の毛のなかにもぐりこんでいく。耳や鼻の穴からはいっていくのも見えた。電車と並走しているキョンは、アライグマやマングースといった雑食もしくは肉食の獰猛な獣に襲われている。雑種のイヌやネコも現れて、阿鼻叫喚のありさまとなる。血の臭いが充満する。いいぞ、その調子。外来種の生き物が地表を覆う姿を見てうれしくなった。秩序なんて無くなって、もっとおかしくなってほしい。わたしはまたもや両方のこめかみに人差し指と中指の腹をぐいと押し当て、目を閉じて念じた。たちまちあたりはぷっつり途切れたように静かになり、電車が線路のつなぎ目を乗り越えるときの音だけがむなしく響く。目の前からハローキティはいなくなっていた。キョンをはじめとする全ての外来種もいなくなり、外ではセイタカアワダチソウが揺れていた。


わかしょ文庫
作家。1991年北海道生まれ。著書に『うろん紀行』(代わりに読む人)がある。『試行錯誤 別冊代わりに読む人』に「大相撲観戦記」を連載中。『ユリイカ 2024年6月号』(特集=わたしたちの散歩、青土社)に「思い出すための散歩」を寄稿。Twitter: @wakasho_bunko

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