第2回 「行間」があぶり出される「本読み」地獄
前回、日本のドラマや映画の脚本は、柱、ト書き、セリフの三つでシンプルに構成されていて、小説に比べると具体的なことがほぼ書かれていないと書きました。そして、スタッフ・キャストはその脚本を取っ掛かりにして、想像力をフル活用させて自分の部署の準備をしていくとも書きましたが、想像力をフル活用するというのは、イコール行間を読むということなのだと思います。
「行間」とか「行間を読む」という言葉を聞いたことのある方は大勢いらっしゃるかと思います。「行間」とスマホで調べると、「行と行の間」などと分かりきっている説明が出てくるので、「行間を読む」で調べると、「文章には直接表現されていない筆者の真意をくみ取ること」などと書かれています。まさにその通りなのだろうと思います。
そして日本の映画やドラマの脚本は、ほぼこの「行間」のみで書かれていると言っても過言ではありません。ト書きに具体的なことは基本的に書けませんし(書きませんし)、真意ももちろん書きません。書きたい!という気持ちになることはよくあるのですが、それを書いてしまうと、「この脚本家、野暮なやつだなあ」とスタッフやキャストから言われるのではないかと怖くてたまりません。セリフにはもっと書けません。今度はスタッフ・キャストだけでなく観客や視聴者にも野暮な脚本家だと思われるからです。
ちょっと話は脱線しますが、以前、演出家の久世光彦さんがテレビドラマと映画の違いはなにか?という問いに、「テレビドラマは人の心を映すもので、映画は人の姿を映すもの」というようなことを何かの雑誌で答えておられたのを読んだことがあります。僕なりにその言葉を解釈すると、テレビドラマでは登場人物が自分や他人の心情を、時にセリフでとてもうまく説明してくれて、それが名ゼリフとなり人の心に刺さることがあります。だからテレビドラマは人の心という目に見えないものを、見えるように映すものだというようなことを久世さんはおっしゃっているのかなと思いました。
かたや映画を「人の姿を映すもの」とおっしゃったのは、人というのは自分の心の内など滅多に言いませんし、なんなら普段口に出して言っている言葉すらも意識的・無意識的に真意でなかったりもします。でも、それが人で、映画はそんな人という存在をそのまま映すものだとおっしゃっているのではないかと思いました。あくまでも僕の想像ですが。ですので、これはどちらが良いとかダメとかの話ではありませんが、映画の脚本のほうが、より行間を読ませるものになっているのだろうと思います。
どちらが良いとかダメとかではないと言いながらも、行間というものは、ないよりもあるほうが優れているようなイメージがあります。実際に僕もそんなふうに思います。つまり、どんなにカッコいいセリフだったとしても、その言葉通りの意味しかないセリフというのは、「ああ、とても良いこと言うなあ」と感動はしますが、受け身で浴びている鑑賞になってしまいます。もちろんそれもいいのですが、ときには「この人、本当はどう思っているのだろう?」というような、まさに行間を読むような、余白を楽しむような見方もいいと思います。
例えば僕が脚本を書き、初めて監督をした『14の夜』という映画があります。14歳の男子中学生の一晩を描いた映画です。主人公は情けない中学生で、自分の情けなさはカッコ悪い父親譲りだと思っていて、父親のせいにして生きています。
彼はとある一晩、様々な経験をします。そして朝、ボロボロになって自宅に戻ると、カッコ悪い父親が待ち受けていて彼にこう言います。
僕はすごく好きなセリフなのですが、これは行間がありません。ここに行間を感じさせるとしたら、
というような形になるでしょう。つまり主人公は、一晩様々な経験をして、自分がカッコ悪いのは自分自身のせいだと身をもって知るのですが、息子の様子を見て、きっと父はそれを悟るはずです。なので、「お前自身のせいだ」は抜いて、二人が言葉なく見つめ合うほうが、父と息子のいろんなことを想像させて良かったかもしれないと思うこともあります。ただ、決めゼリフとして今でも好きなセリフなので後悔はありません。
テレビドラマよりも、自分のホームグラウンドの映画のほうが行間のあるシナリオだなんて偉そうに自慢めいたことを書いておきながら、このように気に入ったセリフが出て来たときには行間を潰してしまうこともあるので、自分の書くシナリオに果たして本当に「行間」というものがあるのかどうかと考えると、実はとても不安です。そしてこの不安感と目一杯に向き合って、凄まじい緊張感に包まれる場が脚本家にはあります。それは「本読み」と呼ばれる場です。
ドラマや映画が作られるとき、脚本家は企画がまだ豆粒くらいの段階から関わることが多いので、その作品に関わっている時間は長いのですが、関わっているすべての人々の中でもっとも早く仕事が終わります。またも少し話が脱線しますが、さぁ、これから撮影だとスタッフやキャストが集まって来るのと同時に脚本家は消えていくわけですから、これには一抹の寂しさを感じます。決定稿を提出し終わると、残るはクランクイン前に行われる「本読み」が基本的には脚本家の最後の仕事となります。
この「本読み」というものはある種の儀式のようなところもあり、近頃はやる監督さんもいればやらない監督さんもいます。ただ、昔は必ずと言っていいほど行われていたようです。僕がよくご一緒している武正晴監督(『百円の恋』や『アンダードッグ』などの作品でご一緒しました)は本読みをやるタイプの監督です。
本読みはシーン1からラストシーンまで、セリフを俳優部が読み、ト書きと柱は演出部(助監督)が読むのですが、これが先にも書いたように、脚本家にとっては大変緊張する場となります。地獄と言っても過言ではありません。なぜかと言うと、「行間」があるのかないのかも含めて、脚本のすべての欠点が白日の下に晒されているような感覚になるからです。いえ感覚と言うのはウソで、晒されるからです。俳優さんが声に出してセリフを読むことによって、「なんだ、このクソダサいセリフは!? 誰が書いたんだ!?」と背中が冷や汗でびっしょりになることもありますし、「このシナリオ、行間のギョの字もないじゃないか!」と自覚することもありますし、「芝居のやり取りがぜんぜん成立していないじゃないか!」と気づくこともあるからです。
それでも俳優さんや各部署のスタッフさんたちは、もしかしたら自分たちが「行間」を読めていないのかもしれないと、必死になって、書かれてもいない行間を探していらっしゃるように見えたりもします。ときには「僕が読めてないだけだと思うのですが……」と申し訳なさそうに、セリフの真意などを聞かれることもあります。「いえ、真意もクソもありません。そのまんまです……」とは答えられないので、その場で「行間」になっていない「行間」を、さも「行間」のように汗をびっしょりかきながら説明したりすることもあります。俳優さんの中には「ああ、なるほど……」などとおっしゃってくださる方もいて、そんなときは申し訳ない気持ちを通り越して、逃げ出したくもなります。
かつてはこの「本読み」というのは、まずはその台本を書いた脚本家がシーン1からラストシーンまで声に出して読んでいたようです。つまり脚本の正解は脚本家の頭の中にしかなかったのだと思います。俳優部は脚本家の読み方から役のニュアンスを嗅ぎ取っていたのでしょう。正解である脚本家の読み方を聞いて、少なくともその正解のニュアンスを崩さず、できれば提示された正解よりも面白くなることを俳優さんたちは求められていたのだろうと想像すると、やはり脚本家は他の誰よりも、自分の書いた脚本を理解していなければなりません。
想像するだけで震え上がるほどに恐ろしいですが、最初に脚本家が読むというこの慣習を復活させれば、脚本家は是が非でも「行間」にあふれた素晴らしいシナリオを書かざるをえません。「ほんとに脚本読めてんのかよ……」なんて心の中で悪態をつくような脚本家もいなくなることでしょう。
日本の映画やドラマがさらに面白くなるために、そして脚本家のレベルアップのために、怖くてたまりませんが、僕はこのやり方が復活してもいいのかな……なんて思ったりもします。
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