見出し画像

スポーツをみんなのもとに返そう

東京にオリンピックが来ると決まった日

東京オリンピックが開催が決定した年、僕はまだアメリカを拠点にトレーニングをしていた。その時の僕は坐骨神経痛に悩まされていて椅子に10分座るのも辛かった。一日中寝たきりで同じポーズで過ごしている時期が長く続いた。「アメリカにきたのに何をしているんだろうか」自問自答する日々だった。

そんな時に2020年のオリンピックが東京で開催される瞬間をライブ配信で見ていた。ロンドン五輪で味わった興奮を自分が生まれ育った東京で味わえるかもしれない。まともに走れるのがいつにわからないけれど、あと一歩踏ん張ってみよう。そんな力を与えてくれた瞬間だった。

現在、僕はアスリートとして東京オリンピックを目指すのではなく、アスリートをサポートする立場でオリンピックを目指している。アスリートとしての僕はもういないし新国立競技場のトラック立つことはできない。ただ、苦しかったときに、「もう少し頑張ってみようか」と、行動するきっかけを与えてくれたことが今の僕を作っていることは疑いようのない事実だ。

モヤモヤを抱えることの正しさ

そして2020年、東京オリンピックが開催されるはずだった年、世界中で新型コロナウィルスが蔓延しオリンピックが1年延期することとなった。それからもうすぐ1年が経過しようとしているのに、事態は好転する兆しもなかなかないままオリンピックの開催予定時期だけが近づいている。僕は今まで様々な分野について発言をしてきたが、オリンピックの開催については自分の意見を言うことができてこなかった。僕らの思いを口にすることが正しいことなのか、それによって悲しむ人が出てしまうのではないか、考えれば考えるほど発言することが難しかった。

新谷は自分の思いを、メディアを通して自らのSNSを通してストレートに語っている。批判されることに怯えながらも、なにかできることはないかと必死にもがいている姿を横で見ることしかできなかった。

僕がオリンピックについてオリンピックの開催について口を開くことができなかったのは東京オリンピックが開催されるべきなのかそうでないのか、オリンピックを開催したいのかそれとも開催したくないのか正直よくわからないモヤモヤが続いていたからだ。しかし、1人の政治家の発言の”おかげ”で自分のモヤモヤの正体がよくわかった。

「アスリートのために五輪をやる」
「アスリートは五輪をやりたいと思っている」

本当にそうだろうか?僕らも一人の国民であって、0か1で僕らの感情を表すことはできない。僕らが絶対的な価値として信じてきたオリンピックの開催の是非が問われている状態で、悩みや葛藤があることは当然のことだろう。僕らはあるべきモヤモヤをもっと表現していくべきではないだろうか。多くの人に応援をしてもらってオリンピックを開催してもらいたいと心から願っていることを伝えていくべきじゃないだろうか。応援されることなく開催されるオリンピックはもはやオリンピックではないだろう。

画像1


「アスリートファースト」にはうんざりだ

僕は幸いなことに現役の頃は世界のいろんな国の競技会に出場したりアメリカを拠点にトレーニングをすることができた。そこで見てきたスポーツは、日本にない華やかさがある一方で、小さい時に公園で触れてきたような温かさがあった。

華やかなスポーツだけでなく、日常にあるスポーツをもっと大事にしていくべきではないだろうか。「アスリートファースト」という言葉が都合よく使われ、「スポーツ」の名の下に国民の日常が奪われることを、アスリートは、スポーツは望んでいるのだろうか。それが置き去りにされてまで開催するべき理由がオリンピックにあるのであれば、それをきちんと説明して欲しい。コロナ禍でみんなが大変なこの時期にオリンピックを開催するべき理由を論理立てて説明して欲しい。僕らが求めているのは、失言ではなく論理的な説明だ。コロナに打ち勝った証にオリンピックがなぜ必要なのか。いまの日本に、いまの世界になぜオリンピックが必要なのか。

僕はオリンピックのようなビッグイベントはスポーツの発展のためには不可欠であると思っている。一方で、スポーツが特別な誰かのためのものになることは、スポーツの発展を妨げると思っている。

少なくともいまは寄り添うべきじゃないだろうか。みんなが苦しんでいる。アスリートは特別ではない。スポーツを特別な誰かのためのものではなく、みんなの元へ返そう。権力に屈し、人を平等に扱わないスポーツ界に未来はない。

「スポーツの民主化」が必要だ。

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?