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スピリチュアリズムは宗教か?(スピリチュアリズム考③)

 2024年1月から、スピリチュアリズム普及会系の「祈りの会」に参加している。東日本では鎌倉市で、西日本では京都市で月に1回実施される祈りの会は、文字通り「祈り」を大霊=神様、われわれ人間に分霊を与えたもうた「真的存在」に捧げる時間である。

 人間の肉眼には見えないのだが、この祈りの会にも霊界から高級霊を中心に何千・何万という霊が一団となって集まってくる。見える(霊視できる)人によれば、それはそれは大挙して霊群が押し寄せ、今の時期なら「サマーソニック」並みの大騒ぎなのだという(サマーソニック、行ったことないけど)。

 礼拝マスターのA氏が提供されているこの場所での祈りの会は、この8月で丸2年を迎えたそうだ。精妙な高いレベルの霊たちが集うこともあってか霊的な雰囲気がとても清冽せいれつで、神妙な空気の中で気分が清々しくなっていく。礼拝の後では霊的エネルギーが身体中に満ちていくのがわかる。なので毎月、この聖別された「神と霊の殿堂」に出向くのを楽しみにしている。

祈りの会はスピリチュアリストとしての「信仰」を映す場

 スピリチュアリズム普及会系の読書会は、「霊的真理・霊的知識について理解と学びを深める」のが目的となる(ここにも霊たちが学びのために大挙して訪れている)。関東地区では「東京スピリチュアリズム・サークル『シルバーバーチ読書会』」が、関西地区では「大阪スピリチュアリズム・サークル『シルバーバーチ読書会』」が読書会を開いており、いくつかの地区で同じような読書会に参加できる。

 一方で「祈りの会」は、スピリチュアリズムで学んだ霊的真理を背景に、神への絶対信頼を自分の「信仰」として映す場である。

 信仰や礼拝といっても、キリスト教的な神父・牧師のたぐいが出てきて何かをお説教をするわけではない。「死後、裁きにあう」とか「悔い改めよ」とか「寄付しなければ地獄に落ちる」などと責められる(?)ことなど、一切ない。

偶像崇拝・伝道・教会・寄付がない、既存宗教とは異なる在り方

スピリチュアリズムを通じてイエスは2021年4月に地上に再臨した。とはいえスピリチュアリズムではイエスを「神」と同じような存在として崇拝の対象にすることはない。十字架にはりつけになったイエス像を拝む行為も全くない(そもそもイエスの塑像も絵さえも置いてない)。「主よ、救いたまえ」などと懇願して涙する者も全然いない。

 誰の手も届かないような高い所に祭り上げたら、イエスが喜ぶと思うのは間違いです。イエスもやはり我々と同じ人の子だったと見る方が、よほど喜ばれるはずです。自分だけが超然とした位につくようなことは、望んではおられません。人類と共にあることを願っておられるのです。

 イエスは人間としての生き方の手本を示しているのであり、それは誰にでも実行できることなのです。イエスをそんなに高いところへ祭り上げてしまったなら、誰も付いていくことはできません。それではイエスの地上人生は無駄になってしまいます。

A・W・オースティン編、近藤千雄訳 『霊的叡智の宝庫 シルバーバーチの教え(新版・下)』p.124

 もちろん、イエスに対する尊敬と敬愛の念は強い。スピリチュアリズムを通して地球人類救済の使命に邁進まいしんしているイエスをお助けしようと、読書会の参加者なら誰もが「がんばろう! おーっ!」と強く思っている(真のスピリチュアリストの皆さんなら解る表現でしょう笑)。

 新たな信者を勧誘したり獲得したりもしない。「信者をたくさん獲得すれば徳が高まり、天国に行きやすくなる」というような、どこかの新興宗教のようなことも言われない。天に向かって先が尖った壮麗で豪奢ごうしゃな「教会」なんぞもいらない。

本物の「神への信仰と礼拝」とは?

 そう考えれば、スピリチュアリズムは世の中に数多ある従来の“宗教”とは全く違う形の信仰だといえる。ゆえに「宗教」と呼ぶべきかは悩みどころなのだ。

 だが神への信仰、そして祈りや礼拝の在り方でいえば、どんな宗教よりも真摯しんしであり、本気である。ただただ、万物を創造し、摂理によって全宇宙を調和させ、全ての人間に自分の分霊を与えた無形にして無限の意識的存在である神(=大霊)に祈る。それがスピリチュアリズムの「祈りの会」である。

 これが理解できるには、従来の宗教に対する既成概念、というよりも固定観念を捨て去って、理性と素直な心を持って「何が正しいか」「何が自分の魂を向上させてくれるか」を真剣に考えて判断し、自ら得心できるようになることが必要だと思う。

 本当なら誰でもできるはずなのだが(なぜなら人間の本質=あなたの真の姿である霊体は本来そのようになっているから)、しかし、これまで生きてきた中で心の内=潜在意識に、ノイズや夾雑物(間違った信仰や唯物主義的な考え、そして自己中心的な利己主義など)を溜め込んだ人には、難しいのかもしれない。

イエスの地上再臨には期限がある

 祈りの会では礼拝の後で、地上次元に再臨したイエスからの通信内容が伝えられる。スピリチュアリズム普及会のホームページだけを読んでいる人には、公表されているイエスの言葉はまだまだ少ないように思えるかもしれない。だが実際には、月のうち半分近くの日、ある時は「ほぼ毎日」のように通信を送ってきているのだ。

 祈りの会に参加するには、霊的真理・知識を体系的かつ十分に理解して得心し、さらに「イエスに認められる」ことが必要になる。なぜなら、スピリチュアリズムは「霊界主導の地球人類救済計画」であり、その手段は「霊的真理の理解による自己救済」であり、そのスピリチュアリズム普及を主導してきた総指揮官がイエスだと納得がいった者が認められる世界であるからだ(ほとんどの何も知らない方は「なんやそれ」と思うかもしれないが、わかる奴だけがわかる世界なので、まぁ仕方がない)。

 そしてイエスの地上再臨は、いつまでも続く訳ではない。期間は有限であり、いつかは地上圏霊界の代表として、さらに上層の霊域である宇宙圏霊界にお帰りになる日が来る。

 地上圏にいられる期間は、どの程度か。イエスは既にそれをご自身で明らかにされている。その期間は地上的な感覚でも、個人的な感覚でも、あまり長くはない。その間に、地上の宗教を全て塗り替え、スピリチュアリズムに一元化する大宗教改革を実現しようとなさっているのだ。

 そりゃそうだろう、「地球圏トップの霊的存在者」がそんなに暇であるはずがないからだ。地球の全歴史上でトップ級の忙しさであるのは間違いないだろう。永遠に地上圏にとどまっている訳にはいかないのである。

守護霊・背後霊はあの手この手で導こうとしている

 スピリチュアリズムが霊界主導の地球人類救済計画であるならば、今現在の地球に生まれている人でスピリチュアリズムに触れて感化された人には、もう守護霊や背後霊が「はやくイエスのもとに行け!」と全身全霊で(いや肉体はないだろうが)、あの手この手で、スピリチュアリズムの真髄を学んでもらうべく影響力を送っているのは間違いない。

 これまでにX(旧Twitter)で筆者のスピリチュアリズムアカウント(@SojuTwintrees)で出会った方でも、いろいろな個人的・家庭的な事情や、最後の踏ん切りがつかないからなのか、読書会などへの参加を躊躇ためらっている方が多くおられる。

 ……もったいない、と思う。単に損得勘定的に「もったいない」と思うのではない。どう考えても「導かれて」シルバーバーチの霊訓やイエスの再臨を理解しようとする段階まで来ているのに、最後の一歩を踏み出さない。これに守護霊・背後霊が「やきもき」とし、踏ん切りがつかないことに「ガク〜ッ😮‍💨」とうなだれているのが解る気がするからである。

 スピリチュアリズムが「わざわざ信者を勧誘しない、集めない」のも、ある人が霊界の真実を知りたい、そして霊的に成長・向上したいと真剣に願うようになれば、「霊界がそのように取り計らい、連れてくる」からなのである。わざわざ宣伝する必要はなく、そういう段階=霊性レベルに達した人を、霊界が赤じゅうたんを敷いて「さあ、どうぞ〜」「それいけ〜!」と歩き出すように仕向けるからである。

「今、学ばなくてどうする?」

 スピリチュアリズムについて、ちょっとでも気になった人、学んでみたいと思った人は、それだけでその人の守護霊・背後霊が「キター!!!」と喜び、ワッショイワッショイとお祭りの状態になるのだ。なので、自分の思うまま、素直に導かれるのが吉であり得策なのである。

「今、私から学ばなくてどうするというのだ?」――。これはイエスも思っていることであろう。導かれるままに進めば「神がすべて良きように取り計らってくださる」と。

 これらが響いた方は、シルバーバーチの霊訓についての知識を学ぶだけでなく、新しく信仰の段階にも踏み出していただきたいと切に願っている。

そして「スピリチュアリズムは宗教か?」に対して結論を言えば、こうなる。

「スピリチュアリズムとは、これまで地上世界では実現できていなかった、霊界では全ての霊が信仰している『唯一の宗教』である。いずれ死んだ後に霊体となったら、誰もが実感することになる『神と神の摂理(法則)への絶対信頼』であり、それを地上で獲得することがスピリチュアリズムなのである」

(了)

▼参考情報

理性で納得できる確かな霊的知識に、信仰を積み上げたものの全体が“スピリチュアリズム”です。

以下より

※引用・リンク先の表示にあたっては、スピリチュアリズム普及会の許可を得ています。


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