見出し画像

「小学校の夏休み」な地上人生と霊的視野 (スピリチュアリズム考①)

小学校から中学校、高校と、学校に通っていた頃。
毎年の「夏休み」は、その日の始まりを迎えるのが常に待ち遠しかった。

毎日が自由時間――。いや宿題などもいろいろあったのだが、とりあえず夏休みが終わる間際の“締め切りの強制力”を活用して宿題をやっつけていく駄目なタイプだったので(今も同じだが……)、終盤になるまでは自由を謳歌おうかしていたオバカ丸出しの子供だった。

何かあったか、しっかりとは思い出せない

毎朝6時30分から強制参加だったラジオ体操はわずらわしかったが、今となっては懐かしい。お盆になると、迎え火をいて花火をし、ちょっと田舎にいる母方の祖父母に会いにいった。

母の里は200年近く続く商家(代々続く布団店で、昔は工場もあった)である。その店舗兼家屋は古くても広く、中を“探検”するのが何よりも楽しかった。母は12人兄弟で、皆が集まると飲んで賑やかになる家系だ。兄姉弟妹それぞれの子供たち(=いとこ)も根アカで気が合うタイプが多く、会ってワイワイと遊ぶのが愉快でしかたがない。そんな小学生時代だった。

それだけ楽しく思い出も多かったように思える小学生時代の夏休みだが、果たして「いつ(何年生)の夏休みにどんなことがあったか」を、今になって思い出そうとしても、ほとんど記憶の縁にも浮かんでこない。

これが中学生や高校生の夏休みになると、やれ部活動だ受験だなんだと忙しかったので、これまた何がいつにあったのか、ほぼ覚えていない。

高校3年生の頃、つまり1985年に「つくば万博」があって、祖母に「一緒に行こう」と誘われた。だが、通っていた高校でバレーボール部主将だった筆者は部活動が忙しくて休む訳にもいかず、行かなかった。これだけは今もちょっと悔いになって残っている。

霊界で何千年と続く魂にとって今生は「短い夏休み」か

「地上に再生して、さまざまな楽しい思い出とともに苦難に遭うことなんて、ひょっとしたら長い人生の中にあった『夏休み期間』みたいなものではないか」

――2024年4月14日に参加した東京スピリチュアリズム・サークルの特別読書会で、「スピリチュアリズムの思想体系Ⅱ」の講義(2度目)を聴いていた時、ふとそんなことを思ったのだ。

人間が死んだ後に赴く「霊界」について、その本質とは何かを考察するテーマに関して、こんな話があった。

霊界は、人間にとって本来(メイン)の生活場所――永遠の住処すみかである

これはスピリチュアリストにとって「基本の“き”」というような話である。地上に生をうけた人間にとって、肉体をまとって生活する今生こんじょうは「死後に何百年、何千年と続く霊界での人生のための準備期間」である、と。その死んだ後の霊界で生活していくことで霊的な成長を成し遂げていくことが本番である、と。

多種多様な霊性レベルの人と会い、その出会いが引き起こす事象や事件や苦難を「どのような態度で処していくか」を学んでいきながら、前世でのカルマを清算し、自身の霊的成長を為す場――それが地上世界である。

つまり、その困難や苦難によって魂が磨かれるという。苦難やつらい出来事があって当たり前なのが、肉体をまとって地上に生まれた人間なのだ。その間、長くてもせいぜい100年。

だが死後こそが本番であるならば、地上で困難や苦難に遭遇する期間は、肉体をまとっている間だけの一時的な期間である。これを学校に通っていた時代の「夏休み」と考えたら、どうだろう?

「物的身体に宿っている皆さんは今生きている地上生活のことだけを考えます。それに引きかえ地上を去った私たちは、地上生活を無限に続く生活の中のわずかな一時期として捉えます。皆さんがとかく物を見るその焦点を間違えるのは、そのためです」

『シルバーバーチは語る』105ページ

「人生100年時代」といっても、何百年〜何千年と続く霊界での人生の中では、ほんの夏休みほどの期間ではないか?

霊的な視野で地上人生を眺める

「死後も続くアナタという霊の人生にとって、今生の苦難・試練はアナタの魂(神が人間個々人に分け与えた神性《分霊》+霊の心)を磨く『夏休みの出来事』に過ぎない」――。

スピリチュアリズム的な視点から見れば、今のこの世で直面している苦難も、別の見方が可能になる。直面している試練を、霊的な視点から眺めれば、起こるべくして起こったその試練に「正しく」対処したあかつきには、明らかに人生にとってプラスな影響が積み上がっていく、と。

実際に死後に霊界で肉体を持っていた生前を振り返ると、その試練や困難がどんな意味を持っていて自分の霊的成長に貢献したかが理解できるようになるという。

そして、試練・困難という苦しい状況に陥った時にこそ、自身の霊的視野を広げて対処するのが肝要だと、スピリチュアリズム普及会のスピリチュアリズムの思想[Ⅲ]などを読むと指摘されている。

苦しみに直面すると、大半の人々は自分なりの世界に埋没してしまいます。そうした弱さは誰もが持っていますが、スピリチュアリストであるなら、そこでもう一度「霊的真理」に照らし合わせて視野を広げることが必要です。その努力をするかどうかが、真理を活用できる者とそうでない者との違いなのです。

苦しみに遭遇したときには、「霊的視野」に立った次のような考え方をして、自分の心を引き上げてください。これらの内容が実感できるなら、その瞬間に苦しみは小さなものへと変化するようになります。
人間は裸で生まれ裸であの世に帰るのだから、この世かぎりのものに執着する必要はない。
物質的なものや地上的な幸せは、取るに足りない。霊界に持っていけるのは“魂の清さ”だけである。
金銭やモノは、魂の道具である肉体を維持するだけあれば十分である。それ以上は必要ない。
この世の名誉や名声や他人の評価には何の価値もない。人の目や人の評価など、どうでもいい。今こそ裸になり、見栄を捨て、新しく生き直そう。
守護霊が常に自分と共にいて、最善の導きをしてくれる。本当の幸せに至れるように心を砕き、愛し続けていてくれる。自分は決して独りぼっちではない。守護霊にすべてを委ねて歩めば、ベストの道が開かれる。
(以下続く)

スピリチュアリズム普及会/スピリチュアリズムの思想[Ⅲ]5.霊的人生を送るための実践項目〈4〉(4)苦しみ・困難に対する最大の武器――霊的真理と霊的視野によるプラス思考

苦しい時こそ、霊的な視野・視点から人生全体を捉えなおしてポジティブに困難を甘受する。そんな霊的視野の基本となるのが「今いる地上世界は、死んだ後の世界=霊界で生きていくための準備期間」だと考えることだろう。

だから、「地上での人生は、せいぜい小学校時代の夏休み」。つらいことがあっても、遠き日の思い出のように、いつかは消化され、それが成長に資することであったと思える――。そう考えるのでもいいのではないか、などと講師の先生の話を聞きながら考えていた。

もちろん、夏休みも正しく充実させて過ごした方が、有意義であるのは間違いない。オレだって、計画的に宿題をこなし、ラジオ体操にも(叩き起こされる前に)喜んで出かけ、作文も感想文も自由研究も順調にやり終えて、優等生的にきちんと2学期を迎えたかったのだ!(魂の叫び)

今生でだって、もっと霊性を高めるような生活を心がけ、霊的に成長するように努力したいのだ!(魂の叫び2度目)

夏休みの末日に宿題が終わらなくて泣きながら夜なべしても、自分は頭と心のネジがいくつか抜けているので、それを苦難と感じていなかったのかもしれない。そのためか、今でも締め切り直前まで筆が進まない自分のような“アホな魂”は、救いようがないのかもしれないけれども。

(了)

※引用・リンク先の表示にあたっては、スピリチュアリズム普及会の許可を得ています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?