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『血の轍』17巻。最終話の違和感と、最終ページの描き方

⚠︎ネタバレ注意

清一がお母さんの介護をしながら最後を見届けて、死んだ直後から開放感を味わってるところや、
老人になって何年ぶりかに母親のことを思い出すも顔が思い出せなくなっているくだりなんかは、
同じ毒親育ちでも自分とは全然違う感覚の持ち主なんだなと当たり前なことを感じた。

私はそもそも両親と絶縁してるし、親の介護は断固拒否するし、
両親が死んでも開放感を味わうどころかモヤモヤは続くだろうし、
ボケて親の顔こそ思い出せなくなっても、嫌な感じは一生忘れないだろう。

一番違和感を感じたのは夢の中での「最期の会話」。

「私はずっと、清一のことを愛していたよ」と若い頃の母・清子が言った時、清一が驚いた表情になり、二人が和むところ。

言葉ではいくらでも言えるし、
本当に愛してはいたんだろうけど、
結局行動が伴っていないことが多々あって、
子供をその歪んだ「愛情表現」で無自覚に傷つけていることが問題なのに、笑いながら人格否定や自虐で終わってしまっているところに、物足りなさを感じた。

「愛していたよ」っていう母親からの言葉がそんなに欲しくて、
そのようなもので救われてしまうものなのだろうか。

私の場合は、両親から「可愛い」と頻繁に言葉で言われていたし、
美味しいものはきょうだいよりも多く与えられていたりしたので、愛されていたはず。

少なくとも贔屓されていたはずなのに、私が自分の意見を主張した瞬間に手の平を返されていたので、
清一の混乱ぶりに共感していた。

私は愛というものが本当にわからず、その紛らわしい言葉が嫌いで、
なんとなく重苦しいものと認識していた。

愛情さえあれば、どんな猥褻も暴力もして良いということになってしまうようだったから。

苦しいと思う自分がおかしいのかと自責することでしか辻褄を合わせることができなかった。

子供の頃から大人になっても、ほんの数年前までは。

今は、親がオカシイことは明瞭だし、
自分の中にもある人間の愚かさというものに気づくたびに、
親を怒るよりも憐れんで観ることができ、自分を責めるより、
行動を改める工夫をしようという意識になるという意味で成長している気がする。

最後の数ページがカラーになっている珍しい演出には、作者の希望を強く感じる。

母親のことを日常の中で忘れてしまうほど、顔も思い出せないほど、
悪い記憶もひっくるめて記憶から薄れ、目の前の景色を母親のフィルターなしで味わえるようになった。

あるいは、いつかそうなりたいという希望なのか。

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