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「#一人じゃ気づけなかったこと『上地結衣賞』」受賞に添えて

昔から、言葉は好きなのに、言葉に不自由さを感じていた。

小学生の頃、作文は大人っぽく深遠なテーマについて書きたかった。僕はそれが変なことだとは微塵も思っていなかった。だけど、大人びたことを書けば友達に冷やかされた。親や先生から「子どもっぽくない」と変な目で見られた。それが嫌だった。

そうした中『なぜ自分は他人と違うことを考えてしまうのだろう。なぜこんなに言葉に不自由を強いられるのだろう』と煩悶するようになった。そして、だんだん子どもっぽい振る舞いをするようになった。頭の中に言葉を閉じ込めておくことが、僕の処世術になったのだ。どこにでもいる子どもに見られたかった。普通でいたかった。通行人Aでありたかった。

だけど今振り返れば、自分ではない誰かのフリをすることは、苦しいことだった。本当はもっと自由に言葉を使いたかったし、何より言葉が好きだったから。


学部時代、友人に誘われて『哲学カフェ』に参加した。哲学カフェといっても、どこかの喫茶店や部屋を借りて哲学っぽい話をする集まりのことで、それほど怖いものでもない。(最初はビビっていたのだが)
それに僕が参加したのは学問としての哲学というより、一つのテーマに対してユルフワに語り合う集まりだった。だからネーミングとしては人生哲学カフェの方がしっくりくる。

ビビっていた割に、僕は大いに発言を繰り返した。こういう会に参加する人なら僕の気持ちを理解してくれるだろうという信頼感も相まって、小学生の頃から抑え込んでいた自我が堰を切ったようにあふれ出したのだ。

想像した通り、参加者はフェアに共感・意見してくれる人が多かった。とても心地がよく、「自分の言葉には意外と価値があるのかも」と自信を持てた瞬間でもあり、「やっぱり言葉が好きだな」と改めて実感した場面でもあった。

そして、ふと思ったのだ。このままでいいのか。小学生の頃から自分なりの考えを様々抱いてきたのに、自らそれに蓋をして言葉に残さず、誰の目にも触れられず死んでいってもいいのか。

noteを始めたのは、ちょうどこの後だった。様々な記事を書く中で、やはり自分は言葉が好きなんだということを再認識した。そして、やっぱり頭の中に抑えこんでおくことは出来ないと実感した。


今回のコンテスト受賞は、僕の文章が初めて賞をもらったことになる。小学生の頃から、共感されないと思いこみ、隠し続けてきた自分の言葉が多くの他人に響き、価値を見出してもらえたことに大きなよろこびを感じている。


今回の記事は、フィリピン・セブ島の貧困地区へのボランティアを題材にした。自分が今知っている世界のちっぽけさを実感した、いわゆる『無知の知』と、それを克服するための『想像力』が大きなテーマとなっている。

中々思うようにまとまらず2週間くらい悩んで書いたのだが、納得のいく形に仕上がった日は大きな充実感があった。それだけに、受賞はとてもうれしかった。記事中に登場したセブの方々や子どもたち、それにアインシュタインや鳥山明先生には感謝してもしきれない。


受賞は、発表の一週間前にnote運営の方からの事前メールで知った。
登録したアカウントは、普段プライベートで使っているものだったので本名がバリバリ表示されていた。にもかかわらず、メールのたびに「お世話になっております。てるると申します。」と返信するのは非常にシュールな経験となった。頭隠して尻隠さず的な。

メールのやり取りの中で、ふと『noteを運営されている方は本当にいたんだなァ』という当たり前のことを実感した。対面のイベントだとスタッフを目にする機会があるが、noteはオンラインのサービスということもあり多くはない。だからこそ、コンテストを考えたり、記事に目を通したりする”支える側”と、初めて1対1の関わりだった。ありふれた表現だけど、こちらからは見えない方々のおかげでnoteという世界は上手く動いているのだな、と、記事のテーマにしたことを改めて実感した。


人生を思い返すと、苦悩したこともあった。だけど、やっぱり言葉が好きで、そして言葉に救われてきたからこそ今があるのだと思う。

中高生の頃はスピッツに魅せられた。自分のために書かれたような歌詞は、小学生の頃から抱きつづけたもどかしさを代弁してくれている気がした。
大学生の頃は、エッセイに勇気をもらった。オードリー・若林正恭さんや、さくらももこさんの、心に響く等身大の言葉が支えとなっていた。本来なら隠したいことですら言葉に残せる人は本当にカッコいい。

さくらももこさんのエッセイ『たいのおかしら』に、〈小杉のばばあ〉という話がある。近所に住む老人の死がきっかけで、”偶然性”に思いを馳せる結びになっている。

私もいつかいなくなる。あと五十年後かもしれないし、もっと早いかもしれない。死ぬ可能性は次の瞬間にもある。今生きていることはあたり前ではなく、可能性の高い偶然に過ぎない。 (p240)

僕が今、言葉が好きなのは必然なのだろうか。スピッツや、大切なエッセイに出会えたことは、生まれる前から決まっていた宿命なのだろうか。いや、思い返すと、綱渡りのようにかなり危ういバランスの上に成り立ったものにしか思えない。

だからこそ、今、可能性の高い偶然の中で言葉を好きであり続けられていることを、本当にうれしく思う。
そして、これからも言葉を好きで、言葉を紡ぎ続けている偶然の可能性が高いことを、切に願っている。


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