三十一文字、という自由 -わたしが今年詠んだうた-

前説


最近、ちょくちょく短歌を詠んでいる。強いて詠もうとしている訳ではなく、ある種日記のように。一見、短歌の31文字という制限は、言いたいことを閉じ込める枷のように思える。けれども、私は日記やメモ、あるいはTwitterの140文字であっても、自分の感じたことを表現するには余りあるものだと思う。それは、白いキャンバスに画を描き始める一手が堪らなく難しいように。全くの白紙に、自らの言葉という筆を執って感情を描こうとするとき、よほどの才を持つひとでなければそこに待つのは「やっぱやめとこ」という表現的挫折である(現に私はTwitterの「下書き」には、行き場を失った言葉たちが外に出ようと列をなしている)。自由すぎるが故に、かえって人は言葉を奪われる。

それに比べて、歌はどうだろう。五、七、五、七、七、全部で三十一文字という縛りの中に、私はどこか人間的・情緒的な心地よさを感じている。スマホのメモに残したら余りにポエティックで恥ずかしくなってしまう出来事も、Twitterで呟いたらフォロワーから怒られそうな出来事も、三十一文字という大義をもってすれば忽ちそれは詩性を帯び、現実や事実としての「意味」から解放される。詩人に対して「それ言って何か意味あるの?」と問いかけても文字通り意味がないように。然して考えれば、短歌の三十一文字という枷は、我々の言葉が意味という社会的役割を脱するための梯子であり、現代社会における「意味」への固執から人間を解き放つ手がかりだと言えるのではないか。

生まれてきたからには、何か意味を成さなければいけない。他者に誇れる人でなければならない。本当にそうだろうか。
あなたが意味付けを求める世界に疲れたなら、ちょっと立ち止まって周りを見渡して、ついでに短歌でも詠んでみたら。

2022年に私が詠んだ短歌(抜粋)

短歌ってこんなにハードルが低いものなんだ、と思ってもらうために、僭越ながら拙作を紹介させていただく。要は、五、七、五、七、七ならなんでも良いのである。あなたが詠む歌は、あなたが詠むときにだけ意味を持つのだから。

2022.10
青春に置いてきたもの夕暮れとバイタリティと鉄のいぶくろ

「草と木の焦げた匂いが秋」なんて誰が聞いてる訳もないけど

バスを待つ隣は何をする人ぞ「さむっ」と二人また一人言

なくなつてまたできるもの面皰とか角のコンビニとかいのちとか

2022.11
「マンションがアドベントカレンダーみたい」、君に言わんとメモに記せり

皆既蝕「月がきれい」というひとのあかり曇らす我が地球かな

岩風呂に小島のように浮く稚児よ遊び、食べ、寝てすくすく育てよ

霜つ月の朝霧となりやがて消ゆさういふものをしあわせといふ

架線上の錆となりぬる血と肉を希死の人らが今朝も乗り越ゆ

真空の私と誰も聞いてない832kHzだ

2022.12
師走なれば世の中は浮きたつものを聖クラウスの胃こそ痛まめ

いずれ死ぬものなればこそ生きもすれ一人エスカレーターをくだる

一様に外気浴するみなさんも何か抱えているのだろうな

彼は遥か文字にかたちは見えぬれば居るも居らずも同じなるらむ

おわりに

短歌を詠み始めてから、五感がすこし冴えたように思う。今まで見落としていた車窓の景色、家族の何気ない一言、時間の移ろいに気づくことが増えた。一切の無駄を許容せず削ぎ落としていく現代社会の中で、ひとがもつ感覚のホムンクルスはどんどん歪な姿になっていく。短歌でも、そうでなくても、生活の中の「意味のない部分」に目や耳を向けてみては如何か。


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