見出し画像

ケアリースミス渚の旅日記 003

モロッコ
 
スペイン南部の波辺の街に住んでいた時、ここに来るフェリーはどこの国とつながっているのだろうと思い、調べてみたことがある。目の前の港からモロッコにフェリーで行ける、と分かった時は「アフリカ大陸上陸」の夢がかなうと興奮した。思い描いていたエチオピアやタンザニアとはガラリと違うアラブ系の国だが。早速、クリスマスと年末年始の休暇を利用して地中海を渡る船に乗った。バックパックの旅は3か月ぶりだった。
ほとんどの乗客がアラブ系の人たちで、朝の船の中は、床で食事を囲んでいる家族や、通路で薄い布を広げて寝ている人で混雑していた。
8時間ほど掛かっただろうか、スモッグで輪郭がぼんやりしている沿岸が遠くに見えてきて、ゆっくりとモロッコ北東の港町ナドールに着いた。ナドールはアルジェリアの国境から近く、写真撮影が厳しく制限されているアルジェリアの文化が入ってきている可能性があった。アルジェリアでは女性の姿や、政府の建物、警察官などを撮影することが禁止されているのである。看板が読めない観光客にとっては、了承なしの撮影は禁止と覚えておくのは得策だろう。スペインの友達がつぶやいた「写真を撮る時は注意ね」という言葉を思い出して異文化が漂う夜を過ごしたのを覚えている。
 

画像1

カサブランカのハッサン2世モスク

画像3

迷路のような細い道が複雑に入り組むフェズの街。モスクの塔があちこちにそびえ立つ。


モロッコでは、気の向くままいくつかの街を周った。計画無し、事前情報無しの旅は、いかなるサプライズも受け入れる心構えさえあれば、非常に面白いものだ。期待しすぎず、固定観念なしに目の前の事実を素直に体験できる。ただ、危険性やその国の人たちが大切にしている文化、挨拶の言葉などは知っておくと便利ではある。たまたま旅の数か月前にイラク人の友達が教えてくれたアラビア語の知識が、目的地の名前を読み取るのに役に立ったのが嬉しかった。ただ、モロッコにはベルベル語の看板も沢山ある。道端で、ベルベル人に話を聞いたり、生活の中で使われているベルベル文字を見れたのは非常に嬉しかった。道中、鞄がほつれてきたのを繕ってくれたのもベルベル人の男性だった。
 

画像6

民族衣装を着たベルベル人。着いていくと確実に迷子になれる。

画像3

車が入り込めない旧市街の細い道ではロバや馬が活躍する



街の中心からちょっと外れた道を歩いていたときに、街並みの写真を撮ろうとしたら、道端に座っていた女性がサッと顔を隠した。女性に許可なしの写真撮影は嫌われるのだ。彼らの生活に踏み入っている私は、彼らの文化を尊重すべきだった。
見回すと、観光客らしき人は一人もいなかった。こういう時に感じる興奮は特別だ。地元の人の暮らしぶりが剝き出しになる、飾りっ気のない日常を目の当たりにできるチャンスだ。
 

画像4

市場で売られるタジン鍋
 

画像7

突然迷い込んだ誰かの結婚式で一緒に踊ってごちそうになる。明らかに親族ではない普段着の私を呼び入れる寛大さに感心する。


当然なのだが、イスラム教のモロッコではクリスマスは祝わない。年末の雰囲気はなく、街並みは普段と変わらず、人々は日々を淡々と過ごしている様子だった。大晦日の夕暮れ(大晦日だとはすっかり忘れていたが)、1日中街を歩いてお腹が空いたので、何か食べようと、観光客のいなさそうなひっそりとした店を探した。

いかにも地元の労働者たちの食堂という雰囲気の、看板のない店があった。中では皆、黙々と何か食べているので、おそらく食堂だろう。入って一歩目がヌルっとする。コンクリートの床が濡れているのかなと思い、慎重に歩いて中に入る。薄暗い蛍光灯の下に、会議机を何本か合わせたようなテーブルの列が3列ほどあっただろうか、椅子どうしの間隔は狭く、ほぼ満席だった。しかしにぎわっていてガヤガヤしているのではない。一人で黙々と食べ、去っていく男たちばかりだった。食堂というよりは配給所のような雰囲気だったかもしれない。食べ物を出している前のテーブルに行くと人数を指さし確認され、角の空いた席を指さされる。どうもメニューは一つのようだ。その場で皿にドサドサッと入れてくれたのは、すでに山積みになっている魚の素揚げとピタパン。そして巨大な鍋に入ったスープを器に溢れるまでよそって、スープの滴る器を皿にのせて渡してくれた。こぼしそうになりながら、黙々と食べている男たちの背中の間をすり抜けて、奥の空いている席にたどり着く。と、そこで店に入って一歩目の疑問の答えが出た。床がヌルっとしていたのは、魚の素揚げの油だ。男たちは、食べた後の魚の骨を床に捨てているではないか!油でギトギトの床には魚の骨がたっぷり落ちていた。

なるほど。ここはきっと地元の人でも来る人は決まっているだろうな、と思った。目の前の男性の食べ方を見ながら、まねしてピタパンに魚をはさんでスープに浸して食べた。骨は皿の横に置くことにした。周りの男性たちが私を珍しそうに眺めている。観光客どころか、女性は私以外一人もいなかった。配給係は微笑み返してくれたので、女性禁止なわけではなさそうだった。レストランでは絶対出さないような地元の料理を、地元の人たちの食べ方を見ながら同じテーブルで食べるというのは私にとっての旅の醍醐味のひとつだ。また貴重な体験ができた。

画像5

男たちの食堂にて食べ方をまねて食べる。床はヌルヌル、骨だらけ。



旅には無限の可能性がある。何を選び、どういう旅をしたいのか、何に価値を感じるのかは人それぞれだと思う。遠い異国へ行くことが大事なのではない。旅する心が大事なのかもしれない。異文化を体験すると、慣れ親しんだ自分の文化が浮き彫りになる。旅することでよく考えさせられるのは「自分とは何なのか」ということだ。生まれ育った国や地域、家庭の文化も然り、そこから生み出された私個人の文化とはどういうものなのかを探る旅を楽しむのだ。
人間一人一人、大きな文化の単位の中で各自の文化をもって個性を醸し出している。異文化体験を素晴らしい体験だと思えるならば、自分自身の文化探求はどうだろう。こんな果てしない、興味深いプロジェクトは他にあるだろうか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?