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自己紹介の続き①<台湾の高校生編>

一番初めに書いた記事におおまかな自己紹介をしています。プロフィールを押せばそれが見れると思います。

それを基に今の私になっていく過程をどんどこ記事にしていき、自己理解を深め、自分の思っている事、感じていることや経験を発言・文章化していきたいと思っています。

(上の写真は実際のクラスです。授業の合間の休み時間です)

小・中学生の私

私は、台湾で生まれてすぐに日本にやってきた。日本と台湾のハーフ
ということで、小さい頃から学校の長期休みがあると、母の台湾の実家に帰っていました。

私は小中学生の頃、学校の友達が長期休みになると「田舎のおばあちゃんちに帰省する。」「おじいちゃんち海近いから毎年夏休み田舎のおじいちゃんち行ってる」とかいう言葉に憧れていました。

なぜかというと、
(いいな、田舎。いいな海。いいな雪。おじいちゃんおばんちゃんち山とか海とか近くにあって大自然でいいな。帰省いいな。)
という感情がいつもあり、帰省ってなにか良く分からず、帰省いいなと思っていました。

帰省=田舎にあるおじいちゃん、おばあちゃんちに行く。と思っていて、
父母の実家に帰るという意味でとらえていなかったのです。
今考えると私もきっと帰省していましたね。

いいなとなぜ思っていたのか、、今考えると、日本の教育はとりあえず、皆と一緒が良いみたいな風習があり、道具箱もみんなと一緒、習字道具も絵具セットも雑巾の形も親にこう縫ってきてくださいみたいな。そういう中で一応私も育ってきたので、みんなの夏休みの過ごし方と違う自分、なんかみんなの家庭環境と少し違うような気がしている自分が嫌だったのかもしれません。

だからといって、”なんで何使うにも学校の指定されたものを使わなきゃいけないんだ”という疑問は抱いていました。きっとみんな一緒じゃなきゃいけない文化には、母が台湾人なこともあり、家庭の文化的に私も染まりきることができなかったのかもしれないです。

毎年台湾に行っていました

毎年一回は必ず台湾に行ってるということなのですが、日本で育ち、家でも日本語を使っていたら中国語が出来ないわけです。

実は、幼児期(4歳頃)半年間、台湾の幼稚園に通うことになり、その間は中国語が出来ていたのですが(逆に日本語忘れかけた)私は頭がよくないので、そこでよく使われる言語しか話せないのです。
そして、また、実はそのまま台湾に住んで台湾の小学校に通う?という流れになり、台湾の小学校に見学に行かせられたのですが、日本での生活に慣れてしまった私は(当時まだ4歳だけど、記憶的にも日本に慣れていたという感覚)活発で元気な子しかいない台湾の小学校のお兄ちゃんお姉ちゃんがなんか怖いと思ってしまい、全然母親から離れられず、行きたくないという気持ちでした。
なので多分日本に帰ってきて、日本で生活することになったのかもしれません。

そんなわけで、日本で暮らしていたので日本語しか使わない生活でした。当然中国語が話せるはずもなく、毎年毎年台湾に行っても年々親戚一同、おじいちゃんおばあちゃんが何を話しているのか、会話の理解が出来なくなってきたのです。

それが少し寂しくなってきた私は・・こうやって台湾に帰ってきてもみんなと話せないの寂しいな。と考えるようになってきて、
おじいちゃんのことが大好きな私はこのままどんどん会話が減っていくのが嫌だなと思っていました。


華僑生との出会い

そんな時に、親戚のおじさんの娘(高校生のいとこのお姉ちゃん)が通っている高校に、僑生(中国語でチャオセン)※華僑といって私みたいなハーフとか、親戚に台湾に繋がりのある人のこと。
が通える校舎があるから見学に行ってみなよと言われ、行ってみることにしました。

今まで、自分の意志で動いたことがなく、全て母にテコテコ着いて行ってた私なので、今回も見学させてほしいとズカズカと学校の敷地内に入る母に着いて行っていました。(この頃多分中学3年生の夏休み頃)
学校中を歩き回り、2人で食堂を見たり、寮や教室を見たりして、母が生徒に話しかけました。
女子2人は普通に母の質問に返していて、だけど、何の言葉か分からないけど、女子同士で自分たちの国の言葉で会話をしていて、私はその時その女子たちに尊敬の念を抱いたのです。
(うわぁ!中国語でママの質問に答えて、自分たちで母国語喋ってるのかっこよ!)
と。
それから私は、母に「もし日本の今行きたい高校が落ちたら、台湾のあの高校行くね!」と話していたのです。


日本での高校生

それから、受験勉強をしっかりし(勉強が嫌いだった私は行きたい高校のために初めてというレベルでちゃんと勉強を始めました。)行きたい高校に受かりました。
といってもだいぶ頭の悪い高校だと思います。が自分では満足です☆

高校1年生はとても楽しかったです。クラスの仲間に恵まれ、グループ的な感じで仲良しな友達ができ、ダンス部に入り、仲間とわいわい楽しく過ごしていまいた。
勉強がやはり好きではない私は、授業中は眠たすぎてほとんど眠ってしまい。
朝は起きられなくて遅刻する日々もありました。見た目は普通なのにやる気が出ない高校生という感じでした。
しかし、友達と過ごす時間は楽しかったです。放課後まで教室で話していたり、近くの川沿いを自転車で二人乗りをしたり、その隣で自転車に乗れなかった友達が走っているのを見ていたり、文化祭ではお化け屋敷をやるクラスで、みんなでお化け屋敷を盛り上げたり、ちょっと文化祭に飽きて外出たいなと思って、担任の先生に話したら、「じゃあこれでアイス買ってきていいよ」ってお金もらってコンビニに買い出しに行ったりと。
今思い出したら随分漫画にあるような青春していたわけですよ。

なのですが、なんだかつまらない。

後ろの窓際の席で窓の外を眺めながら良く感じていました。

なんだかつまらない。もっと刺激がほしい。

3学期の終わりには常に思っていました。このつまらない感情はなんなんだと。



色んな人の運命を色んな意味で変えた東日本大震災

そんな時、2011年3月11日。

ダンス部の部活で、ダンスの練習をしていた時、
なんだか今日は頭がすごくグワングワンするなあ。バランスとれないなあ。
あれ、MDがすごい落ちてきた。ドアがガタガタいってる。ん?たちくらみ?
でもただのたちくらみじゃなさそう。ちょっと止まってみよう。
ん?なんかすごい揺れてない?

と感じていた私。みんなもきっと同じだった気がします。

すると、放送が流れ

早く、校庭の真ん中に集まってください。

と言う先生の放送。

覚えていますよ。この時の大地震のこと。

電車に乗って揺られているくらいバランスがとれなくて、うまく歩けなくて、空が黒紫色で長い龍みたいな雲があったことも。



多くの人は思ったと思います。
日本終わるかもしれないと。
私の家族もそう思っていました。


台湾に行こうと言う母に着いて行くことにしたのです。


始まりました台湾生活

台湾生活がスタートしました。

ほとんど聞き取れない。(本場の日本人よりかはさすがに聞き取れますのでほとんどです)
ほとんど話せない。(相槌と、ありがとう、ごめん、こんにちは以外できない)
全く字が読めない、書けない(これは本気でひとつもできない)

母も一緒に台湾に行ったということで、母と二人で住む家を探しました。
母の実家はありましたが、長期滞在でプラス2人も住むのは少し難しかったので、親戚の使ってない家を借りることにしました。

だが、この家しばらく人の出入りがなかったということだったので

出るんです。私がこの世でものすごく嫌いな

ネズミが・・。

2回くらい出ました。もう私は台湾に住みたくなくなりました。

といっても、帰るわけにはいかないので出ても無視しろという強い母の教えで無視をしていました。

登校日初日は母と一緒に行くことにしました。一人では何にもできないのです。

初日に食堂に行くと、黒人の男が机に座ってりんごをかじっているんですよ。
初めて見る顔の私に「ハーイ」って挨拶してくるんです。私は初めての光景すぎて、返事もできず苦笑いでハハッとするだけ。THE 日本人ですね。
(この彼と後々めちゃめちゃ仲良くなることも知らずに・・)

そんなこんなで学校に通うことになりました。
私が行ったのは4月。台湾は6月が年度終わりなので、私は後2か月で年度が終わるよって時に行ってしまいました。
最初に中国語の能力がどれくらいあるのか、学校の先生に試されましたが全く会話が成立しなかったので、とりあえず2か月は中国語のクラスに入るということになりました。
この2か月がとても濃いことになるなんて思ってもいませんでしたよ。

初めてクラスに入った時の衝撃は今でも忘れません。
みんなはそのクラスにほぼ1年間通っていたから慣れてる場所、慣れてるメンバーだったので私を歓迎してくれた感じはすごいしました。


衝撃だったこと~

  • まずは土足ですね。土足なので足が蒸れます。
    まだ16歳だった私はこんなに1日中外靴でいたことがありませんでした。
    足が蒸れて慣れないのです。日本では上靴に履き替えますでしょ?室内だから上靴をスリッパ感覚でたまに脱いだりしますでしょう?
    だけど、外靴だと教室でもなんだか外っていう感覚で脱ぎたくないんですよ。
    それは辛かったですね~。

  • あとは、女の子の机の上には鏡を立てていて、授業中でも立てている、自分をチェックする。

  • ギターを持ってきて休み時間弾いて歌う

  • 女の子のスラックス率80%。しかもそのスラックスは町の制服仕立て屋さんみたいなところに行けば、通ってる学校言ったらその学校に合った生地を何個か選んでくれて形とか長さとかオーダーメイドして作る人が多すぎる。私も2本くらい作りました。

  • 授業が長すぎる。朝7時半~20時まで

  • 教官がいて私たちを監視している(みたい)

  • 悪いことしたらぺけがついて、それを消したいんだったら学校の掃除とかボランティアをするとなくなる。

  • 17時になったら夜ご飯休憩になるのだが、ほぼみんな買い物に行き、毎晩タピオカを飲んでしまう~毎日飲むとタピオカ少しでよくなるからスイカの種飛ばしみたいなゲームが始まってしまう。

  • 休み時間は本当に自由だから教室にスピーカー置いて音楽爆音で流している。

  • 外国人は歴史をよく知っている。自国の歴史はもちろん世界の歴史のこともよく知っていて、よく歴史の話を振られたが私は自国の歴史のことも全然分かっておらず、恥ずかしかった。

等々。日本では規則やルールばかりに縛られていた私だったので全部全部が新鮮で刺激的でした。
そりゃあみんな個性豊かに見えますよ。ですがそれがきっと人間の本来の姿ですよね。
犯罪レベルや人が本当に嫌がるようなことじゃなかったら自分やまわりが楽しむように生きたいですよ。

最初の2か月間

母が途中で日本に帰り、私も毎日朝早くから学校に通うのがしんどくなったので、寮に住むことになりました。

中国語の勉強は簡単ではなく、ほぼ毎日小テストがあり、ほぼ毎日寮でも勉強をしていました。
大きなテスト前になると、勉強のしすぎで友達に顔色が変と言われるほどでした。
高校受験を受ける勉強よりもっと勉強していました。

親戚は近くにいるけど、親が近くにいない。私は家族が大好きだったのでホームシックになり何回も泣き、授業の合間の休み時間によく母に電話をし「帰りたい」と何回も言っていました。
最初の頃は「がんばりな」と言われていたのですがさすがに私も言い過ぎていたのか「じゃあ、戻ってくる?戻ってきたかったら戻ってきていいよ」
と言われ、そう言われると人間逆のことしたくなりますよね~ということで、「いいや、やっぱりがんばる!絶対台湾で卒業する!」という意気込みになりました。


人見知りだった私は、自分から話しかけることができませんでしたが、外国人のみんなはさすがです。色々聞いてくれます。
ですが、最初の私は言葉が話せません。英語で話してくれますが、英語も出来ません。
そこで絵を描いて会話をしたり、喋れない私と一緒に食堂に行ってご飯を食べてくれたり、寮の部屋にお招きしてくれたり、学校の近くにある市場に一緒に行こうって言って誘ってくれたりと、優しい人ばかりでした。
でも、私が仲良くなった人たちはなぜか、その後学校に残らないで他の国に行ったり、他の台湾の普通の学校に転校してしまったりと、悲しかったです。
その人たちのおかげで2年目の中国語教室での勉強もがんばろうと思えました。

ちなみに最初のクラスで韓国人の男の子に恋をしました。
授業中ずっと寝てるような人で、私が来たことに気が付かず、私を見ると「日本から来たの?」と。
その子とは、席が前後になり、絵を描いて会話をしていました。
2か月間だけ同じクラスで過ごし、その子は年度末には他の学校に転校しなくてはいけなくなり、離れ離れになってしまいました。
私は、2年間忘れられず、ずっと想っていました。
私は思い切ってFacebookで連絡をとり、出会ってから2年後に会うことに。
何回か一緒に遊びに行ったのですが、彼を知れば知る程・・なんか違うなと・・。
最終的には申し訳なかったのですが。
甘酸っぱい経験もしたりですね。

2011年9月から新年度の授業が始まる台湾

中国語のクラスは合計1年2か月間いました。2か月だけではさすがに習得ができなかったので、次年度もいることになりました。
猛勉強をしてもう1年で中国語のクラスを修了し高校の部に入ることができました。(中には合格できなくて3年間いる子もいる)
私は日本で1年間過ごしているから高校1年でも2年でもどっちでもいいよと言われたので、2年生を選びました。
なぜかというと、2か月間一緒にいた子たちと同じクラスになれるからというのと、早く高校を卒業したいと思ったからです。

3年間の間でアルバイトもしました。日本で本格的にたい焼きを修行した、たい焼き屋さんです。
私は抹茶が大好きなので、抹茶のメニューがたくさんあるそこで絶対にしたい!と思っていました。
今まで食べたたい焼きでいちばんおいしいと思います。絶対においしい。
「若葉」というたい焼きやさんです。
「鯛魚焼 若葉」ってFacebookで調べたら出てくると思います。
そこでは店員のあり方であったり、店員と客の関係性であったりと、全く日本とは違いましたね。
人間皆対等と言う感じです。疲れたら座る、ひまだったら携帯いじる、歌う、お店の物飲む食べる等。
日本のおもてなしが好きな人にはありえないことでしょう。

台湾人とも触れ合い、色んなところに行き、色んなものを見て、
色んな物を食べ、色んな遊びをしました。
私は高校3年間という、いちばんの青春を台湾の台湾人ではない、色んな国で育った人たちとほとんどを一緒に過ごしました。

台湾に行ったから今の自分になった

最初は自分には合ってないなと思っていた環境だったけど、最終的にはその生活や環境スタイルに自分がなってしまい、居心地が良すぎると感じるようになりました。

喜怒哀楽はちゃんとするし、感情表現もする、行動でも表現するし、男女共にみんな素直で偽りがなくストレートでした。毎日がありのままの自分で毎日が楽しかったです。
誰かが苦手であっても仲悪くなるような行動はしないし、悪口言わないし、自分が適度な距離とればいいんでしょスタンスな人たちでした。

男の子は女の子に優しいのが当たり前だし(好きな人や彼女には特に)、女の子は本当に友達思いの人が多く、お互いがお互いを支えあっている感じがしてすごく居心地がよかったです。

日本語で言う多様性ですね。
まさに多様性でした。多様性が当たり前すぎて、何が?というような感じでもありますが。

きっちりかっちり、みんなほとんど同じだねな文化から、この自由な文化を知ってしまった私は日本にいるのがちょっと窮屈と思ってしまう時もありますが、今は日本にいたいと思うので修行していきたいと思います。

という3年間を過ごしてきたおかげで今の私の価値観や生き方や性格があるのだと思いました。

私の価値観や性格や生き方はまた後々分かってくると思いますが、

ここでざっくり言いますと、自由でわがままで好きなことしかしたくなくて、なまけもので、働きたくなくて、かしこまったことが苦手で、スーツとかきっちりしていることが苦手で、笑うことが大好き。と言う感じです。本当にざっくりですよ。もう少し他のことも考えたりしてますよと。


最後はnoteについて

本当に何を伝えるべきなのかまとめるのが苦手で下手くそすぎて、世に出ていて誰かが読んでくださっているのに申し訳ない文章になってしまいました。
自分でも何を書くべきなのか分からないのです。どの状況や感情や出来事を言葉にするべきなのか分からないのです。日々が濃すぎて。何を伝えたいのか分からなくなってしまうのです。
私より年下なのに文章も話すのも上手で、要点をまとまたり、出来事の中で何が大切で、それをまとめるとどう伝えるのがいいのかって分かって、上手く伝えられてる人が、noteを見ているとたくさんいて、いいなあ~と思います。
その人たちは表現方法がたくさんあって、人にもよく伝わっているし、素敵な文章で読みたくなるなあ~と思います。

私もがんばります☆


タイトルは台湾の高校生編なのに、話が色んな方向に飛んでしまい
申し訳ありませんでした。

本当に最後まで読んでくださった方がいましたら、感謝です。
ありがとうございます。

次回も自己紹介の続き<大学生編>です。

#自己紹介
#高校生活
#留学
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