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失礼な老婆【岩井秀人 連載 2月号】

いわい・ひでと●ワークショップ『ワレワレのモロモロ小金井編』の台本執筆者&出演者を募集。応募期間は2月25日まで。募集要項はこちらから。

シンガーソングライター、「マエケン」こと前野健太に勧められていた喫茶店に、この度ようやく行くことができた。地方で作品作りなどをする際、エクストリームにうらぶれている居酒屋にあえて突撃していっては「あそこめちゃいいっすよ!」と述べるマエケンなので、ぶっちゃけ「何をお勧めされたのかわからない」状態。「食べ物が美味しい」などといったシンプルなオススメじゃないことだけは確かだった。

その店はパッと見でも30年以上はやっていそうで、喫茶プラス洋食の歴史を感じさせる、メニューの飾られたウィンドウにもうっっっすらとソースが塗ってあるかのような、全てが少し火で炙られたような、全体を飴色に沈ませたような店だった。

中に入ると、カウンター内に老夫、そしてカウンター脇の椅子に老婆が座っていた。老夫は入ってきた男岩井に向かって何か言ったような気もするが、何も言わなかった気もする。老婆の方は間違いなく何も言わずに抱えた盆のささくれをむしりつつ、男岩井を明らかに歓迎していない様子だった。

なんだかな~な沈黙の中、こういった個人経営の店にはそれぞれの「掟」のようなものがあるのだから仕方ないと、ひとまず「ランチってまだやってますよね?」と少しはっきり目に発してみた。驚いたことに、3秒ほどの沈黙が訪れた。そんな中、今の時間が11時で、「ランチってまだやってますよね?」どころか「ランチはこれから」だったことに気づく。マスターであろう、深く背の曲がった老夫は、キッチンに額を向けたまま、目だけをコチラに向けて男岩井の訳のわからない質問を脳内で反芻している様子で、老婆の方は丁寧に「はあ?」と言ってくれた。「はあ?」でしかない表情で。顔中に刻まれた無数の皺は、古印体で何か書いてあるようだったが、何が書いてあるのかまでは分からなかった。

「あ、間違えました。ランチこれからですね」と述べると、老婆は無言でメニューを我がテーブルに置いた後、指先を自身のこめかみに向けてくるくると回しながら背を向けた。久しぶりに見た「クルクルパー」のモーションである。動物が暴れた後のようなボロボロのクッションに腰掛けた後、見たことのない動物でも見るかのように僕を見ながら老婆は「どこのもんだろうね?」と独り言のように言った。西部劇の字幕以外で初めて「どこのもんだろうね?」という言葉のある空間に居合わせた男岩井は、早速イラついていた。「店員、かくあるべき」という古典的な怒りを持った自分に対するイラ立ちでもあったかと思う。

入店時には1人しか客がいなかったが、僕がナポリタンを頼んだ頃には、4~5人の客が入ってきていた。「どこのもんだろうね」を述べた老婆が、それぞれの客にどんな対応をするのか、それとなく監視していたが、「あぁ吉田さん」と、顔見知りであろう客に対してメニューを渡す際にも、メニューをテーブルに「置く」というよりも「放り投げる」に近いムーブメントであった。客もそれに慣れているのか、バフンとメニューがテーブルに定着する瞬間には「ランチ」とか「ホット」などと、無表情で返す刀で注文していた。

岩井のナポリタンを作り始めたであろうマスターは相変わらず、料理に虫でも混入したかのようにフライパンに頭を突っ込んでいたのだが、客が増えるごとに独り言のように「あっちメニュー」「水ふたつ」と呟き、それぞれのテーブルに足りないものを提供するよう、指示を出していた。老婆は不機嫌さを全身にキープしながら、それに従った。マスターの指示は的確だった。老婆は器用なことに僕の席のそばを通るときのみ、不機嫌のオーラを明確に上げていた。

男岩井はその老婆の悪意を自分の怒りの正当化のために利用し、なんだかニヤニヤしながら老婆を見つめる、という行動をとっていた。向こうが悪意を持ったのだから、こちらも同等の、いやそれ以上の悪意を持ち、表現しても構わないはずだ、といった精神状態である。当然、そんな悪意に満ちたほくそ笑みの中年男岩井と目が合うことになった老婆は男岩井のほくそ笑みをしっかりと確認した後、両手で大きく「シッシッ」をした。

「暗く細長い男のほくそ笑み」と、「皺だらけの老婆のシッシッ」。近年稀にみる、清々しいほどに白昼堂々な悪意の交換である。もう仲良くなれるんじゃないだろうか、な風景でもある。

「同じくらい悪意ぶつけ返したし、最終的には向こうのほうが下劣な態度とったから、あとはババアの可哀想さを感じてやるだけでいいや」と思いながらナポリタンを食べたら、怒りが復活してきた。

めちゃくちゃ美味いのだ。しかも全くナポリタンの色をしていないのに、である。このベージュ色のスパゲティのどこに、ケチャップが存在しているのか。いや、ケチャップを使わず、焦がしたトマトをどこかに忍ばせているのだろうか。とにかく美味いのだ。

「これほど美味いのに、ババアのような餓鬼が住み着いているせいで、店の雰囲気も暗いし、新たな若い客も一人もいないのだ」というだいぶ遠い目線からの強引な怒りが、岩井を満たすのであった。以前にも、深夜のコンビニ店員と口論になった際、「俺、ここの昼の店員さんたち、本当に素晴らしいと思ってた! それなのに、あんたみたいな人が一人でもいたらさ、店の印象ってどうなると思う?」と半泣きで言ったことがあるほど、男岩井の「責められる目線があったらとにかくそこにポジションを取ろうとする」機能は優れてるんだか壊れてるんだか、なのだが、クルクルババアに対しても同じ説教を垂れてやることを想像しながら、ナポリタンを食べ、ついでに満席になった店内にいる、ババアの狼藉に対して一切触れようとも、違和感を醸し出そうともしない中年サラリーマンたちに、「貴様らと男岩井との格の違い」を見せるチャンスなのではないか、くらいに思っていた。お前たちの優しさは優しさじゃない。怯えだ。100メートルの悪と戦うためだったとしても、自分は1ミリでも悪になってはいけない、という怯えなのだ。

そういえば、あの時のコンビニ店員、俺が「昼の店員さんは素晴らしいと思ってた」って言った瞬間、頷いたよな。そこには頷くんかい!って思ったよなあ、などと思いつつも、やたら美味いナポリタンも食べ終わり、この店にもう用はない。さて、どのタイミングでババアに引導を渡してやろうか、と会計のタイミングも見計らいながら店内を見回すと、壁に貼られた単品メニューの中に、マジックにて手書きで書かれたであろう張り紙があった。

「お客さまへ。7年前に妻が脳梗塞になり、そこから退院して以来、妻は」

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