夏の夜の終わりに ⑯
彼女が泣き止むと僕らは自然にベッドへ向かった。特に何をするわけでもなく、二人で天井を見つめていた。彼女が言うように、確かに天井には小さなシミがあった。余程集中して見ないと分からない程度のシミだ。彼女はシミを見ることで無意識に苦痛から逃れようとしていたと思うと、胸を締め付けるような痛みが走った。
「もう四時だね」彼女が言う。「君はもう眠い?」と続けて彼女は訊いた。
「少しだけね」と僕は答える。
「朝まで起きていたいって言ったら、君は付き合ってくれる?」
「もちろん。案外徹夜は得意なんだ」
「君には徹夜が似合いそうだものね」
「君には徹夜が似合わなそうだね」
「そんなことないわ」
彼女は枕の上で首を横に振る。彼女の柔らかい髪が僕の頬に触れる。柑橘系の柔らかい香りがした。
「私、本当は毎日朝方まで起きているのよ。仕事の関係もあるけれど、あまり眠れなくって」
「前に美容に悪いから早く寝るって言っていなかったっけ?」
僕が訊くと彼女はくすくすと笑った。
「あれは嘘よ。女の人は嘘を付くものだって言ったでしょう。全く、君は悪い女にすぐ騙されそうだね」
「そうかもしれない」
「実際、私に騙されているしね」
「君は悪い女性じゃないよ。とても美しい女性だ」
「意外とそういうことも言えるのね」
「時と場合にもよるよ」
「それは私と寝たいがために口説こうとしているってこと?」
「そんなんじゃないさ。ただ、君にはそう言ってもいいかと思っただけだよ」
「似たようなことを言った男性は大勢いたけど、結局私と寝たいがためだった。それも私と少し親密になって、無料で寝ようとしてくる連中ばかり。本当に、男の人はどうしようもない人ばかりね」
「それは、僕もどうしようもないってことかい?」
「いいえ。君は違うわ。君の言葉には余計ないやらしさがないもの」
「そんなこと分かるのかい?」
「分かるわ。いやらしい男の人と沢山寝てきたからね」
「女の勘ってやつだね」
「いいえ、売女の勘ってやつよ」
「反応に困るからそういうのは辞めてくれないかな」
彼女は声を出して笑った。「君のそういううぶなところ好きよ」と言った。あまり褒められている気がしなかった。
話しながら、僕らはひたすらに天井のシミを見ていた。シミは姿を変えることなく、ただそこに存在しているだけだった。まるで今の僕らの様だ。何一つ関係性が変わることなく、ただそこに居続ける。こんな変わり映えのない関係が、僕らには丁度良かった。
「ピザ、全然食べなかったね」と彼女が言う。
「そうだね」と僕は答える。
「ねえ、少しそっちを向いてもいい?」と彼女は訊く。
「いいよ」と僕は言う。
彼女は横向きになり僕の顔を見つけると、また訊いた。
「ねえ、少しだけ抱きしめてほしいの」
「それで僕が変な気を起こさない保証は出来なくても?」
彼女はゆっくりと頷いた。「君なら、別にいいよ」
僕は彼女の背中に右腕を伸ばし、左腕は首元から頭に絡ませた。そしてゆっくりと彼女を抱き寄せる。彼女の柔らかさを、僕は体全体で感じる。そしてバスローブ越しに彼女の鼓動を感じた。
「名前を知らないという意味では、僕も君と寝ている男性と変わらないよ」
彼女は腕の中で首を振った。
「名前を知らないという意味ではね。でも私は君の名前以外を知っている。だからいいのよ」
彼女は僕の首筋に顔を埋めた。そしてごく自然に、僕らは眠りについた。特に何をするわけでもなく、ただ抱きしめ合ったまま僕らは眠っていた。
深い夜が、更けていった。
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