うたごえ (七夕のお話②)


お昼を過ぎた交差点には、たくさんの人があふれていました。

買い物袋を下げた人、飲み物の入った紙コップを片手に歩いている人、誰かと一緒に笑いながら歩いている人、しかめ面で通り過ぎる人、人、人。


(そろそろ、帰らなけりゃいけないな。)

ぼんやりと立ち止まっていた男の人が、後ろから歩いてきた男の人にぶつかって、小さく頭を下げました。

(ここは、タヌキの住むところじゃあない、わかってる。)


彼は、どこからどう見ても、人間の男の人に見えますが、本当は、タヌキが化けているのでした。化けるのが上手なこのタヌキは、一度、人間の住む街に出て、どこまで人を騙せるか、試してみたかったのです。そこで、3カ月前に、山からおりてきて、電車に乗って、初めてこんな大きな街にやってきたのでした。

(今日こそ、山に帰ろう、これで最後にしよう。)


彼が立っている向かいのビルの前に、一人の女の人がやって来ました。黒いケースからギターを出すと、肩に下げ、ポロポロとギターの音をそろえると、静かに歌い始めました。

ほとんどの人は、彼女が見えていないかのように、知らんぷりをして通り過ぎます。または、チラッと目をやるものの、つまらなそうな顔をして、行ってしまうのでした。

けれども、彼だけは、別でした。


3カ月前のこと、はじめてこの街にきた日に、大勢の人に驚いて具合が悪くなってしまった彼は、彼女のうたごえに出会ったのでした。

それは、ふるさとの山にふく風のような、やさしいうたごえでした。

彼女は歌い終わると、しゃがみこんでいた彼に気づいて、「大丈夫ですか?」と、声をかけてくれました。

「おなかすいてるなら、これ、良かったら。」そう言って、ラップに包んだ丸い食べ物を渡してくれました。とてもおいしそうなにいおいがして、彼は一口食べました。

「おいしい!これ、なに?」彼は聞きました。

「えっ?!何って、えっと、ホットケーキだよ、ただの。私の朝ごはんだったんだけど、食べそびれちゃって。良かったら、もうひとつ、どうぞ。」

「おいしい、本当においしい!初めて食べた。」

彼がそう言うと、彼女は笑って、

「ふふ、ありがとう、私の得意料理!というか、私これしかつくれないんだけどね。」そう言って、自分の立ち位置にもどり、ギターを鳴らして次の曲を歌い始めました。

それから、毎週、彼はここにきて、彼女の歌を聞いていたのでした。


彼女の歌を聴くと、ふるさとの山に帰りたくなります。

けれども、いつまでも彼女の歌を聴いていたくて、結局、山に帰らずに、3カ月も経ってしまいました。きっと、仲間たちも心配していることでしょう。


曇り空のビルの谷間に、大きな笹が立っていました。

(うわ、どこの山から持ってきたんだろう。懐かしいなあ。よし、やっぱり、今日こそ山に帰ろう。)

久しぶりの笹を見上げている彼のところに、そのお店の人が話しかけました。

「良かったら、短冊に願い事を書きませんか?」そう言って、薄紫色の長細い紙を渡してくれました。

彼は、その紙を持ったまま、いつもの場所に行きました。ギターの彼女が、彼を見つけて話しかけました。

「あ、短冊。そこで配ってたね。なんて書いたの?」

「書いてない。書く?あげるよ。」

「本当?」彼女は嬉しそうに受け取ると、カバンからペンを出して、なにか書いていました。

「なんて書いたの?」と、彼が聞くと、「まあまあまあ、ええと、『大きなライブ会場で歌いたい!』と、書きました。」彼女は照れ臭そうに言いました。

「うん、叶うよ、それは、絶対に、叶う。」彼は当然のように言いました。

「そうかなあ。」彼女は短冊をひらひらさせています。

「そうだよ、君の歌は、本当に、素晴らしい。ぼくは、一生、忘れない。」


その日の夕方、彼は、タヌキは、山へ帰ってきたのでした。


それから、何年がたったのでしょうか、夕暮れ時に山から下りてきたタヌキの耳に、懐かしいうたごえが聴こえてきました。

それは、一台のトラックの運転席から流れてくるようでした。

「彼女の歌だ!」

動き出したトラックを追いかけて、タヌキは、走りました。

うたごえは、どんどん小さくなっていきます。


やがて、彼女の優しい歌声は、山から吹く風にとけて、消えてゆきました。

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