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最後のファイター


 上に貼った写真、その中央を陣取っている機械の理智的なフォルムに注目して頂きたい。白地に赤のみの極めてシンプルな配色はもはやスタイリッシュという域を超え、まるで霧の中から尺八が微かに聴こえてくるかの様な、幽玄、かつ静謐な境地へと我々を誘う。武道の達人の如き佇まいにはまるで隙が無く、この機械に一撃を浴びせる為には相当の武者修行が必要である事をひしひしと実感させられる。88種類のゲームと共に煉獄から解き放たれた、残虐非道な戦闘機械。奴の名は、そう、FC HOME88…

 FC HOME88という名のおもちゃが中野の某雑貨デパートの五階、おもちゃ売り場に数年前から展示されている。いかにも初代ファミコンハードの偽物じみた外観のその機械が何なのかというと、やはり初代ファミコンのカセットを刺す事で家庭用TVでファミコンを遊ぶ事ができる様になる互換機だ。だが、それだけではない。なんと、既に機械の中に88種類のゲームが内蔵されている!ファミコンのカセット一本の定価をざっくり5000円と考えると、総情報量の合計44万円!それが一体いくらで売られているのか?1980円!こりゃ、とんでもない!デフレもここまで来たか!
 と意気込んでおきながら、まあ想像されているであろうオチを言うと、それらのゲームは本当にとても、心の底から澱みなく酷いものだ。単純に計算して1980÷88=22.5、一本あたりの定価が22円50銭くらいで妥当としか言い様が無い、音楽のジャンルに例えるならパンク、ローファイより更に恐ろしい「スカム」、ライブハウスに出演して只ステージ上で段ボールを破り続け、「この音が僕達の音楽です」と主張してる人達みたいなものでしかない。ローファイとかはまだ自分達が理想とする音像が技術不足で崩壊したとか、そもそも技術が高い人達があえてぐちゃぐちゃな曲を確信犯的に演奏してるとかで、「不思議な音楽」として鑑賞できる余裕が充分にあるが、腹の座ったスカムにはそういう物すら何も無い。「この人達は何でこんな事してるのか?」と、そこにある文脈を想像した上でのポストモダン的な評価軸しかそこには無い。そして、FC HOME88内のゲームの殆どは、小賢しい文脈など画面の外へと跳ね飛ばしてしまう真の無、アタリ・ショックの焼け野原の下から這い出してきた8ビットの異形の亡霊だ。

 例えば"aether base"というゲーム。宇宙空間が舞台で、プレイヤーは画面真中の大きな要塞を操作するのだが、この要塞自体を動かす事は出来ない。その代わり砲台を八方向に動かし球(形状と迫力の無さからして弾というより球。カラーボールかなんか)を発射する事で四方から迫る敵を撃破する、そういうゲームなのだが、もう球が出るのが遅えのなんのって!挙動が完全に老人。宇宙戦争に参加していい反射神経じゃない。また敵がえらく多くて動きが速いのよ。人海戦術で絶対にこっちが死ぬし、こっちの目的が何なのかも一切不明だしで、敵側が主役なんですよ。どう考えても。こっちが脇役なの。でもこっちが死んだらゲーム終わるじゃん。だから敵も無茶苦茶フラストレーションが溜まるだろうね。向こうからしてみれば、敵のザコを倒した瞬間にバグってゲームが終了する様なもんだから。誰一人得しないゲームなんですよ。ルールが既に詰んでる。
 そういうゲームが山盛りで入ってる訳。怖いよね。
 と、こう書いといて何だが、私はそういうゲーム(表現)があっても別に良いと思っている。

 内蔵されている88種のゲーム機を遊ぶ為に件の機械を買う事は、私に言わせるならば、コンピューターウィルスがみちみちに詰まった箱を1980円で買う(しかもそれらのウィルスは侵食能力すら既に失われている)様なものだが、それ、いいじゃん。最高だよ。前衛ってそういう事だよね。やっぱコンテキストに依存してちゃさあ、気持ち良くナナハン吹かせないじゃない、と矢沢永吉ばりに私はその行為を賞賛したい。実際"FC HOME88"で検索すると、なんとかそれらのゲームを楽しもうと試みる人達による記事がいくつか出てくる。

 自分が操作する対象が無である以上、新しい秩序をその画面の外側に構成しないといけない。それがそのゲームに参加するという事で、それがきっかけで、そこにいて一緒にプレイしている数人と会話が弾んだのであれば、それこそが真のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だとすら思う。とりあえずXよりは良質な筈だ。

 私がその雑貨デパート五階で実際にゲームを何個か遊んでみて(そう、遊べるのだ。なぜフリープレイが許されているのか不思議で仕方が無い。あれらのゲームを遊んだ上で「よし、買おう!」と思う人は100年に一人位しか現れないだろう)特に印象に残ったのは"final fighter"というゲームだった。多分著作権に抵触するので貼らないが、"final fighter game 88"で検索すればプレイ動画が出てくる。
 final fighterのプレイ画面は、画面手前から二本の砲台の先端が突き出した主観映像として表されている。自分自身の姿を確認する事はできないが、おそらく戦車に載っているのだろう、と想像はつく。コントローラーによりプレイヤーの視点が左右に移動するが上下ボタンは押しても何も起こらない。左右ボタンを押しながら、敵の戦車を見つけたら球を発射して撃破する。敵戦車はこっちに向かって来る事は無い、が球は撃ってくる。何故かそれは絶対に自分には当たらない。しかし、時折謎のダメージ(本当に理由が一切不明)がライフを奪っていく。そのうち背景がループしているのに気付く筈だ。つまりプレイヤーを中心にした円運動を多数の戦車が行っており、プレイヤーはそれらを何となく破壊するという、やる気を失くしたサバイバルリサーチラボラトリーズみたいな謎の儀式を彼等は粛々と行っているのである。


Survival Research Laboratories Live at the Extreme Futurist Festival, LA, California, Dec 22, 2012

 このゲームは何が起こればクリアになるのか?制限時間内に生き残ればいいだけだ。そうすれば次の面に進める。2面は1面と何が違うのかというと、空の色が青から黄土色に変わった。それだけ。それ以外は全部1面と同じ。色が変わったから何やっちゅうねん。戦争に知育菓子の概念持ち込むな。2面を制限時間まで耐えて3面に進むとどうなるのか。空が紫になるだけだ。確かに彼はファイナルファイターだろう。彼の後には何も無い。と、私はここでプレイを止めたのだが、なんとYouTubeのプレイ動画によると、3面は制限時間が長過ぎて、謎ダメージの蓄積量が大きくなりすぎて時間内に確実に死ぬ為に絶対クリアできないらしい。
 私はfinal fighterを遊びながらカフカの小説について考えていた。例えば「城」では測量士Kは目の前の城を目指すが、そこに到達するまでのプロセスは無限に分割されるためにKはいつまでも城に着くことが出来ない。「変身」ではザムザが一夜にして人間から虫へと変貌してしまうがその理由は読者へと明かされる事は無い。
 カフカの小説内の大きなテーマの内の一つは「運動が否定され、それゆえ登場人物が自らのイメージに留まり続けないといけないという孤独な状況」を描く事であったと私は思っている。主人公の周りを廻り続けながらも決して主人公に近付く事のできない戦車の群れは、私にカフカの諸小説を思い出させた。しかしfinal fighterは攻撃という行為で戦車に干渉できる点が「城」のKとは違っている。むしろこれは、様々な手段を講じてKの運動を拒否出来る"城"を主人公とした「城」のゲーム化なのではないだろうか。だからこそこのゲームは「謎のダメージの蓄積による強引な終了」という"未完"で終わるしか無かったのではないか?そして、"城"本来の姿が確認出来ない理由は、もしかしたらカフカ自身が"虫"の姿を具体的に絵で表す事を頑なに拒否した理由と同じなのかもしれない。くだらないゲームを遊びながら自分はそんな事を考えていた。
 カフカの小説とはクソゲーのノベライズなのだ。私にとっては。だから何が面白いのか分からないままカフカに惹かれ続けてきたのだ。ファイナルファイターがそれを教えてくれた。君は戦場で華々しく散ったが、君の命日には必ずや花束を手向けよう!!有難う!勇敢な戦士よ!!君の事を忘れない!

(B.G.M/The Jellyroll Rockheads – Flowers For Nothing E.P.)


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 おっさん丸出しの思い出で大変恐縮だが、小学生の頃に友達の家に遊びに行くと、友達A君と友達B君が二人で「くにおくんの時代劇だよ全員集合!」ってファミコンソフトで遊ぶ事が多くて、俺は何が面白いのか分からなくて後ろで見てるだけだったんですけど、あれは何だったのか未だに分かりません。「くにお」と「りき」が侍の格好して各地をうろうろしながら通行人を殴りまくるだけなんですよ、内容が。だから時代劇っつうか寺山修司が提唱した市街劇に近いと思うんですが、いや、寺山修司の事なんて何も知らないんですが、何が言いたいかというと、ああいう(自分にとって)良く分からないゲームが、自分にとって良く分からなかった小説をテーマにしてくれればいいのになあ~、と、いまふと思っただけです。「くにおの失われた時を求めて」とか「くにおと重力の虹」とか「くにおの氷三部作」とか遊んでみたくないですか?なんか思い付いたんで書いてみました。それでは、また来週〜。


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