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不在

 毎年、1月になるとX(昔はTwitter)上で、数多くの中年達による「自分は成人式に行ったか、それとも行かなかったか」という議題が俎上に登りだす。曰く、成人式にきちんと参加したかどうかが、その後その人がちゃんとした大人になれるかどうかの分水嶺であった、と、後々己(を含む大勢の人)の人生を俯瞰した時に思い知るらしい。そういう事が出来る人達は本当に凄いと皮肉抜きで思う。
 自分は20歳の時に成人式に行ったか行かなかったのか完全に思い出せない。自分の人生の消失点の向こう側へと容赦無く隔離されてしまった。当時、大勢の同年代の男女と共にパイプ椅子に座っていた記憶は朧げに存在する。だが、それが何だったのか思い出せない。卒業式?それとも全校朝礼?修学旅行?そして不思議なのは、この情景を思い出す時、同時に必ず"古墳"が脳裏に蘇る事だ。ならばこれは古墳跡地に遠足で行った時の思い出か?しかし、遠足でパイプ椅子に座るのか?それとも古墳で成人式を開催したのか?一切が不明。そもそも成人式って、その年に成人を迎える人達を集めて一体何をしたいのか?シャーロックホームズの赤毛連盟みたいなものか?意図が分からない。
 振り返ると、何が何なのか分からないまま大勢の人が集まる催しに参加させられた思い出が、自分の中でほぼ全部消えている事に気付く。文化祭、体育祭、夏季合宿、etc…困ったものだと思うが、別に私が少数派なのではなく大概の人がそんな感じではないだろうか?やはり、「同じ地区に住んでる」以外に共通点が無い人達と一緒にアツい祭りを楽しんで下さい、具体的には合唱や徒競走でアツくなって下さいって、余りにもイベントとしてフックが弱すぎる。後々思い出せる訳が無い。ただ、高校の頃の同級生に滅茶苦茶頭がいい奴がいて、そいつが大学生と一緒にアナルカントのコピーバンドやってて、あとそのバンドメンバーの友達の女性と付き合ってて、それら全てのシチュエーションが心底羨ましかったのは忘れられない。あれこそ文化に纏わる思い出だ…あれから何年の時が過ぎようと…「こいつのスタイリッシュな青春と比べておらの高校生活は何なんだべ?…兵役?」という惨めなわだかまりは、未だ己の胸の中で怨嗟の炎を渦巻いている……東京ならまだしも、九州のド田舎の話だ。前もnoteに書いたけど、牛舎があるあぜ道を抜けて30分自転車を漕いでやっとタワーレコードに着く様な町で、そこでアナルカントのコピーバンド。やられたね。しかもタワーレコードは結局潰れて指圧店になったからね。やられたよ。やけに薄暗くなってる店に貼られてる閉店のお知らせ見て倒れかけたもん。「おらがスピーディーJさ買った店は指圧店になんのけ!!?」って。要するに巨大資本から「この村に最新の音楽は不要」だと判断された上で文化的な兵糧攻めに巻き込まれた訳で、自分が今音楽配信を利用していない理由はこの時の体験が大きい。ビジネスマンに音楽の管理を任せていると、消される時は一切の予兆無しでスッと消されると思う。とか書きながら、スピーディーJの配信サイトへのリンク貼っておきます。

  そんなこんなで、やはり学生時代、というか若い頃の学校や社会が主催のイベントは、余りに企画力が弱すぎた為、例えるなら正月にやってるババ抜きの番組並みに企画力が弱かった為、「しょ、正月とババ抜きの間に一体何の関係が!?」と誰もが狼狽する程に企画力が弱かった為、「『芸能人のババ抜き見せてやっからよ。良かったな』って事!?施(ほどこ)し!?」と誰もが目の前の惨状に恐怖を憶える程に企画力が弱かった為、「しかもこれ十年以上続いてんの!?もうほとんど呪われた村の因襲じゃん!」と誰もが天を仰いで嗚咽を漏らす程に企画力が弱かった為、「この狼藉を10年以上にも渡って許容してきたこの社会って、何!?」と己が属している共同体にすら疑惑の目が向かってしまう程に企画力が弱かった為、残念ながら記憶にはほぼ残っていない。今自分が思い出せるのは「キャンプファイアーの火の勢いが凄かった」とかしか無い。
 
 20代の頃、2回だけ連れて行かれたカラオケも自分には異界への旅レベルで不思議な体験だった。わざわざ誘ってくれた人達には悪いと心から思うが、自分はカラオケ店の中に居る間中、例えるなら、深夜の、水面に波一つ立たないダムを凝視しながら時々流れてくる葉っぱを数えて「ああ、3枚だなあ」とただ思う様な、そういう「不吉な予感」と闘い続ける心境にしかなれなかった。あの場所にエネルギーは存在していて、それはあの時何らかの方法によって発露されていたのだろうか。分からない。率直に言って、あそこで他人が何らかの歌を歌ったり、自分が何か歌う事が、何なのか。カラオケは何が楽しいのか。自分は未だに分かっていない。失礼な発言だと自覚しているが、楽しげな雰囲気の背後で、不吉な物が音を立てつつ醸造されている気配をひしひしと感じた。それは自分にとって、嘗て参加した結婚式で行われた余興の禍々しさと似た物だった。
 数年前に話題になった、チャイルディッシュ・ガンビーノというミュージシャンが発表した"This is America"という曲のPVがある。巨大なショッピングモールの駐車場の様な建物の中を、"ウヤヤヤヤ〜ヤ〜ヤ"というアメリカ南部を思わせるメロディをバックに、己の筋肉を誇示するかのような戯画的な歩き方を伴ってガンビーノがこちらへ向かって来る。前景に顔を布で覆われ椅子に座らされ両手を拘束された人物が現れ、ゆっくりとズボンの後ろに隠していた銃をガンビーノは取り出し、そしてその人物の頭を事も無げに撃ってからラップを始める。その後も「お金を稼がなきゃ…!」と楽しげにコーラスする聖歌隊をガンビーノは機関銃で容赦無く薙ぎ倒す。ディス・イズ・アメリカ。この残酷さこそがアメリカなのだ。この曲はそう主張する。
 自分が参加した結婚式では、余興のコーナーに水泳パンツとゴーグルとキャップだけを付けた男性が登場し、新郎新婦の末永い幸福を願うために、水泳パンツに割り箸を刺して尻の筋肉で割ると宣言した。

 厳しい事を言うが、他人の結婚を祝う為に尻で割り箸を割る人間は頭がおかしい。彼の国を称揚する訳では無いが、北朝鮮で同じ事を言ったらその場で処刑だろう。自分はそれから起こる事全てを見たくなくてただ下を向いていた。パン、という銃声を思わせる音と共に歓声が上がる。ディス・イズ・ジャパン。この救いようの無い下らなさ。これが日本だ。自分はこういう底の知れない下らなさやわざとらしさが嫌いで仕方が無い。その理由は全く分からない。

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 先日コンビニに夕飯を買いに行ったところ、店内で猫をモチーフにした商品が多数展開されているキャンペーンが催されていた。なんでも2月22日を"にゃんにゃんにゃん"と読んで"猫の日"だと制定しているらしい。へ〜と思いながら適当に商品を選んでいたところ一つの菓子パンの上で私の手は止まった。キャラメル味のバウムクーヘンなのだが、中央の穴が猫の顔の形に象られている。きゃにゃめる味。
 ちょっと待って欲しい。穴が猫の形って、つまり楕円に小さい三角(耳部分)が2つ追加された訳で、当然その分バウムクーヘン自体の体積は減ってるわけで、じゃあこれはコストカットではないのか!?バウムクーヘンでない部分の形が可愛くなりましたって、それで満足しろとでも言うのか?
 私にはそれが、アイドルやVtuberの写真を貼っていたりする為に一般相場よりも割高な値段を付けられている弁当やレトルト食品の様な、所謂キャラクターグッズのパロディ商品にしか見えなかった。だがそれはまた、キャラクターを象る物が穴という"無"である事によって、恐らく生産者達が意図した物とは違う意匠を纏わされているとも感じた。


 1996年にFontana Pressから刊行された"the fontana post-modernist reader"は、当時のポストモダンを巡る数々のエッセイを収録したアンソロジーだ。その中のERNEST STERNBERGによる"The Economy of Icons"では近代経済での商品価値の変節が語られている。
 曰く、かつての資本主義経済では使用価値が高い物やサービスが生産されてきたが、ポストモダンの時代に入ってからは、生産会社は消費者の欲望や渇望を満たすイメージを生み出す事に力を入れている("Whereas for most of the capitalist era business firms produced goods and services presumed to have identifiable uses, the new postmodern firms devote themselves to generating images that appeal to consumers' desires and longings.")。
 具体的な活動を一つ上げると、ポストモダン下での企業(の生産方法)はまず有名人、ポップなキャラクター、ロゴ、最新のイベントを先におき、その次に、そのイメージを貼り付ける事が出来るありふれた販売物を選択する(そしてそれを生産して売る)("the postmodern firm begins with the celebrity, the pop-culture character, logo, or news event and then asks about the selection of mundane salable items to which it can be attached.")。これは「芸能人というバリューが先にあり、彼等彼女等にババ抜きという単純な行為をさせる事で、その行為自体にも幻想的な商品価値を持たせようとする」試みによく似ている。
 その様な生産を続けた結果、ポストモダン下において象徴(Icons)を扱う資本主義は、産業化以降の情報経済を特徴付ける元となった理性的な計算(による力への上昇志向)と、殆ど関係の無い物になってしまう。ポストモダン下の資本主義は情報経済の奇妙な表面と化してしまう(But postmodern iconic capitalism has little to do with rational calculation. Indeed, it appears as a bizarre obverse of the information economy.)。具体的に言うと、商品の実際の効用よりも、それらの効用が満たされた場合の状況、例えば「幸福」等の状況をその商品が"象徴"できているか、という点に重きが置かれる様になる。

 結婚式の余興に出演した人々が、モノマネをしたり踊ったりする事は「幸福の象徴」ではあるのだろう。しかし、それら自身は果たして見ていて楽しい物なのだろうか。大勢の友人達とカラオケ屋に行って天体観測とか歌う事は「親睦」を象徴する行為ではあるだろう。しかし、それらは聴いていて楽しいものなのか?
 正直に言うと、私にはそうは思えない。

 バウムクーヘンの中央に猫の形に空いた空間は、その形以外に何の特徴も有していない。つまり単なる"猫のイメージ"でしかない。そしてそのバウムクーヘンを食べるという事は、"猫のイメージ"を形作っている"周りの環境"を食べる、つまり消費する事だ。その際"猫のイメージ"は壊れてしまう。だが、それは消費された訳では無く、ある空間が"猫のイメージ"から解放され自由になった事を意味するだけだ。私はその点が新しいと思った。ある存在が、何かを象徴させられていて、その状況を打破したい際は何をすればいいのか?その何かを象徴させている"環境"、それを消費すればいいのだ。そうすればその存在は、自らを括いている全てのイメージから解き放たれて自由になる。私はその事を猫の形の穴が空いたバウムクーヘンから教わった。

 私は早速YouTubeを開き、「結婚式 余興」で検索して適当な動画を開いてみた。画面の中では半裸の男性達がばいきんまんの格好をして、20年前に流行した曲に合わせ、参加者達の歓声を浴びながら、絶え間ない笑顔と共に激しく踊っていた。私はその動画を0.25倍速にして音声を消した。
 私は次にDJ SCREWを検索し、"My mind went blank"という曲を探した。DJ SCREWが発明したSCREWという手法は、要するにレコードの回転数を極端に下げる事で楽曲に酩酊感を付与させる行為の事なのだが、それは同時に、その楽曲を演奏していた人達、ラップしていた人物、達がレコード上に落とし込んでいた無意識を肥大化させる行為でもある。そしてその無意識は、その楽曲が流れる場所に存在する社会性を容赦無く浸食し、全てをDOPEという名の更地へと化して行く。私はその曲を流し、そして件の動画を再び再生した。
 "My mind went blank"をBGMにして0.25倍速で踊る男性達からは瞬く間に全ての社会性が剥奪された。もはや彼等は社会的な意味の一切を象徴していなかった。幸福、羨望、人気、ひょうきん、おちゃらけ、熱血漢等、彼等が嘗て象徴していたイメージを形作る"環境"は、"My mind went blank"によって完全に彼方へと流れ去ってしまった。彼等は幸福でも無く、また惨めでも無く、まさにBLANK(空白)としか呼び様が無い地点で、ただただ笑いながらばいきんまんの格好をして踊り続けていた。
 俺も負けてらんねえな、と思った。



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