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暴力温泉芸者"nation of rhythm slaves"を久し振りに聴いて思った事

 今はまた違う状況にあるのかもしれないが、かつて「暴力温泉芸者の作品」というレッテルを冠せられたCD群は、とにかく作った本人からボロクソに點されるという運命にあった。曰く、「あんな下らない物がCDショップに並んでいる事が面白い」「面白く無さすぎて忘れたい」etc… たしか2000年代の初頭までは、ヘア・スタイリスティックスの新譜のプロモとかでインタビューを受けている氏が暴力温泉芸者の活動について話を振られる度に、心からウンザリした様子で「聴く価値が無い」みたいに吐き捨てていた、と思う。自分の知っている限り、製作者からここまで悪口を言われ続けた作品群を他に知らない。
 純朴だったかつての自分はそれらの発言を聞くにつれ「なるほど、ここまで本人が言うのだから暴力温泉芸者の音楽は面白くないんだろうな」と氏の発言を信じ込む様になり、それらのCDをあまり聴かなくなっていった。
内容が抽象的な上に製作者がゴミだと断言している音楽、やはりそれらを聴くのは後回しになってくる。
 そして先日、久し振りに聴き返した暴力温泉芸者のアルバム、"nation of rhythm slaves"は、自分にとってとても素晴らしい物であった。


 1996年に、所属していたレコード会社との間に生じていた度重なる軋轢に疲れ果て「愛の無いアルバムを作ろう」とした結果出来上がった、と本人が2000年に出たスタジオボイスのノイズ特集号で言っていた(気がする〘当の雑誌を紛失したので記憶に頼っている〙、あと同じ雑誌で本人はこのアルバムについて「内容が充実してると思うが、ま、誰も聴いてないよね」と言っていた、と思う)このアルバムは、所謂ノイズや、ジャンルで括るならアシッドフォークになるだろう金延幸子の「はやぶさと私」のカバー、本家より豪華なアレンジを施されたcanned heatの「going up the country」の真っ当なカバー等の15曲で構成されており、言われない限りは「このアルバムに愛が無い」のかどうか全く気付く事が出来ない(8曲目、「Roll over "Love-stylist"の2分過ぎからいきなり音がデカくなる部分だけは明確に嫌がらせだと理解出来る)作りになっている。
 まず自分が驚いたのがこのCDの音質の良さだった。6曲目「100 dance terrorists」は、冷蔵庫のモーター音の様な"プワ〜"という音が流れ続け、その上を雷鳴と衝突音の中間の様なゴロゴロというノイズが装飾し、時折人の叫び声が微かに聞き取れたりする、という内容なのだが、こういう抽象的な曲でそれぞれの音がここまで聴き分け安いものもなかなか無い。7曲目「erect the funkmaster」の冒頭は、何か箱の様な物を叩き続ける音から始まるのだが、その光景が想像できそうな程にその音像はリアルである。製作者の意図とは裏腹に、「音質が良い」という点によってこのアルバムは随分ポップな印象を付与されることに成功している。いや、アルバムコンセプトを考えるとそれは失敗か。とにかく、どういう音により何が起こっているのかがとても分かり易い。
 もちろん内容も素晴らしい。笑い声や叫び声が混合されエコーがかけられたオープニングから、「リズムの奴隷達の国」というタイトルを揶揄するかの如くファンキー(と単純に形容するには音が歪み過ぎているが)なベースラインが流れる1曲目「dream punk rocker part Ⅰ」、続く2曲目ではサイレンの音が遠くに響く中、エフェクトをかけた泡の様な音と共に男の溜息、何かをしゃぶる音等が挿入される。それらの総体から受ける印象は悪趣味なものでは無く、ただ楽しいだけだ。11曲目「rodeo drome」は、その名の通りのドローン音の上にピヨピヨしたシンセ音が絶妙のタイミングで被さり、ただただ居心地の良い空間を捻出している。先程も言った通り、"nation of rhythm slaves"から受ける印象は悪意というよりは総じてポップであり、自分の考えだが、ポップに愛が有るか否かは別に大した問題では無い。
 
 このアルバムの3、4、5曲目は普通の曲のカバーになっている。「going up the country」、野坂昭如の「サメに喰われた娘」、そして「黒の舟唄」。多分作者の意図であろうが、3曲目と4曲目は悲愴かつ皮肉な繋がりを示している。「僕は田舎に行くんだ そこは水がワインの様な味がする所さ」と心から愉しげに歌い上げる3曲目、が4曲目では一転して「サメに喰われたあの娘 ほんとにサメが食べたのか 誰も知らない」という悲しい事後報告へと取って代わられる。
 ここではAが"味わう筈であった「水」"に、いつの間にかAが"食べられてしまう"という分かり易い転倒が起こっているのだが、その、Aが消えた瞬間に何が起こったのか、それは誰も知らない。
 私はこの事が氏の作る音楽の大きな魅力の内の1つであると思う。喜び勇んで水のある所に出掛けたAが、水のある所で消えてしまった。勿論何か痛ましい事故が起こったのだろう。だが、その瞬間は誰も見ていない。もしかしたらAは何処かで生きているのかもしれない。悲惨な状況のみをわざわざ用意して、それをユーモラスかつ残酷に、執拗に描写する。そして結果はどうなったのかを決して明かさない。Aは何処かで生きているのかもしれない。Aは多分死んでいるだろうが、もしかしたら生きているのかもしれない、という状況を結論を先延ばしにして作り出す事、それは、氏の書いた小説が評された時のフレーズ、「99パーセントの弱い絶望と、1パーセントの強い希望」という在り方と一致するものだ。
 ヘア・スタイリスティックスの「joy of the sexy night」という曲は後半、女性の「うれしいね〜、うん、なんかね〜、うれしいね~」という呟きが延々と続くが、そのようにして状況のみに目を向け続け、そこから何が結論付けられるのかは一切意に介さない事。"nation of〜"のオープニングで人の叫び声と笑い声を混ぜ合わせ、それには「怒り」や「喜び」の意味があるのだと安易な表層づけをせず、ただそのままの状態を描写して楽しむ事。なぜなら、その行為はそれ自体で楽しいからだ。なんの意味がなくても。私が氏の音楽が好きなのはその点が大きい。それは単に結論を先延ばしにしているだけの行為だという批判もあるだろうが、別にいいじゃんとしか答えようがない。「この機材はもう時代遅れだ」という生産業者の"結論"によって昔の機材がどんどん生産停止になり、新作の録音にカセットMTRを使う他無くてマスターがカセットになったという現状を氏はインタビューで嘆き、怒りを表明していた。全身全霊を賭けてダラダラする事こそがダサい方向にしか変化しない世の中へのプロテストだ。カセットMTRを使用して出来上がったヘア・スタイリスティックスの「ダイナミック・ヘイト」も、やはり素晴らしい作品だった。

Hair Stylistics - Music For The Murder Festa (Official Video)



 今、ヘア・スタイリスティックスの"NO PONY"を聴きながらこの文を書いている。discogsで調べた所2010年に発表されたCDRらしいが(いつ買ったのか自分でも忘れていた)、CDRなのでその内聴けなくなるし、誰がCDとして再発するとかヘアスタのバンドキャンプに入れるとかしてくれという気持ちでいっぱいだ。ヘアスタの質の高いCDR群がいつの日か聴けなくなって、もちろん再入手もできなくなるのかと思うと本当にやるせなくなる。
 ヘアスタ(及び暴力温泉芸者の諸作品)はいつだってダラダラして何も決定しない事の楽しさ、重要さを私にわかりやすく提示してくれる。それはずっと変わらないだろう。最後にヘアスタのバンドキャンプへのリンク貼ってこの文を終わります。"モーメンツ・イン・ザ・ダーク"の2曲目とか、お子さんも好きになるんじゃないかと思います。


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